筒井康隆「モナドの領域」を読んで:妬み恨み嫉みという感情

筒井康隆モナドの領域」

しばらく前に図書館で予約を入れた筒井康隆モナドの領域」の順番が回ってきた。

 最後に筒井康隆を読んだのは「虚航船団」や「文学部唯野教授」だから、もう20年以上前になる。

ずいぶん久しぶりに読んだ「モナドの領域」は、予想以上の楽しめた。筒井康隆の文体はあまり好きではないので、読み始めは違和感があったけれど、第3章にあたる「大法廷」でのGODの陳述のあたりからは引き込まれて、最後まで一気に読んでしまった。

 あらゆる事象は真善美、一切皆苦

この小説には、時空に偏在している世界の創造者(GODと呼ばれている)が登場する。

人間にとっては、世界は、悲劇的で不条理な出来事であったり、罪と思われる行為に満ちている。しかし、世界を創造したGODにとっては真と偽、善と悪、美と醜の区別がなく、すべては真善美なのだという。巨大な災害、戦争、そして、人類の絶滅それ自体も美であると。

このような創造者の捉え方は、一神教の信者にとっては涜神的に見えるかもしれないが、私のような一神教の信者ではないものが、時空を超えて世界のあらゆる事象を創造し、認識する存在について想像すると、筒井康隆が書いたような認識を持つということは納得できる。

仏教では、世界のすべては苦である「一切皆苦」という考え方がある。これは、すべての事象が真善美とするGODの認識と対立しているようであるが、真偽、善悪、美醜の区別をせず、世界をそのまま認識し受け入れるという意味では同じことをコインの両面から表現しているように思う。

妬み恨み嫉みという感情

私は、外からは淡々としているように見えるようで、あまり妬み恨み嫉みという感情にとらわれていないように思われることがある。しかし、当然ながら、人並みか、人並み以上にそのような感情に囚われてしまうことがある。

過去の行為の積み重ねで現在の自分があり、過去は変えられない以上、現在の自分も変えようがない。一方、未来はこれからの自分の行為で変えうるのだから、過去や現在の自分はそのまま受け入れ、これからの行為に集中すればよい。

と理屈では思う。

妬み恨み嫉みという感情は、こうあって当然と思う自分と現実の自分の落差から生じる。その感情がうまく未来の行為に向けられればよいが、実際には過去の自分や他人に対して向けられてしまうことが多い。そして、そのような感情に囚われているとき、苦しくなってしまう。

歳を取ればいろいろなことに諦めがついて妬み恨み嫉みから解放されるようになるのかと思うと、むしろ逆に、自分の未来の可能性が狭まっていくため、そのような感情から解放されることはない。

GODの視点から自分を俯瞰する

自分が解脱することはないだろうから、妬み恨み嫉みという感情から解放されることはない。しかし、自分が不条理だと不満に思うことも、GODの視点から俯瞰すれば、すべては真善美なんだろうな、そう思えば妬み恨み嫉みから離れられるだろう。常にGODの視点から考えるということはできないけれど、そういう視点もありうるのだ、ということを意識することには意味があると思う。

モナドの領域」を読んで、そんなことを考えていた。

モナドの領域

モナドの領域