「やさしさ」と「親切」

いまさら「やさしさ」について考えてみる

いまさらこんな「厨二病」的なテーマのエントリーを書くのもなぁ、と思いつつ、最近「やさしさ」ってなんだろうという疑問がふつふつと湧いてきたので、自分の考えを整理するためもあり、書いてみようと思う。

このエントリーでは「やさしさ」と「親切」という言葉を、独自の定義で使おうと思う。辞書を調べてみればちょっと違う定義が書かれていると思うが、このエントリー内では以下の意味で使う。

このエントリーでの「親切」と「やさしさ」の定義

「親切」とは「誰か対象のある行為、言動で、かつ、それが対象のために具体的に役立つもの」と定義する。ポイントは、行為者に、相手への共感とかおもいやりといった情動が必ずしも伴う必要がないこと、一方で、相手のために具体的に役立つ行為、言動であること、ということである。

「やさしさ」とは「誰か対象への共感に基づく情動」と定義する。ポイントは、情動であって必ずしも行為、言動を伴わないこと、また、相手のために具体的に役立ったり、伝えられたりするとは限らないことだ。

業務上の「親切」は「やさしさ」か?

最近、業務上他者を支援する役割を与えられている。仕事をする上で、できるだけ「親切」に、つまり、支援する相手に対して具体的に役立つように、心がけている。これは、「やさしさ」と関係あるのだろうか?

あくまでも職務として「親切」を実行しているので、基本的には仕事の外のことは切り離している。だから、支援している相手のため、というより、そのことを通じて会社への貢献、突き詰めれば会社の収益に貢献できるか、という視点を持って判断している。その意味では、共感という情動の「やさしさ」とはかなり隔たっている。

とはいえ、実際に相手のために役立つ具体的な行為、言動をするためには、相手の状況を洞察する必要があるし、そのためにはある程度情動面での共感も必要である。実際に「親切」を積み重ねて、相手から感謝の言葉をもらうような機会があれば、情も動く。

一方で、職務としての「親切」は、誰か情が動いた人に手厚くすることは望ましくない。自分の時間、労力を考えて、最大限に効果があるような「親切」の配分を考えなければいけないし、それが情に反することもある。

自己中心的な動機で、しかし、他者に貢献する「シャンパンタワー理論」

最近、自分のなかで「シャンパンタワー理論」というものを勝手に構築している。あくまでも自分を満足させるため、という動機でした行為が、結果として他者に貢献することがある、という理論である。

例えば、私はパンケーキが好きで、粉や焼き方に少々のこだわりがある。少なくとも、自分にとってはおいしいパンケーキが焼ける。休日の朝食、パンケーキが食べたくなると自分で焼いて食べる。もちろん、自分ひとりで食べるのではなく、家族の分のパンケーキも焼く。どうやら好評のようだ。

あくまでも自分がパンケーキが食べたいから、自分で焼いて食べる。副産物的に家族にもパンケーキを焼き、それで家族が喜ぶ。「シャンパンタワー理論」のイメージが分かっていただけただろうか。

家族がパンケーキをよろこんで食べてくれれば、自分として満足度は高まるけれど、別に好まなくてもそれはそれでよい。自分が満足できるパンケーキを食べれればそれでよいのだから。また、自分がおいしいものを食べたい、という欲望はけっこう強いもので、自分が満足できるパンケーキを作るための試行錯誤の結果、他に人にとってもあんがいおいしいパンケーキが焼けてしまうようになる。

人にやさしくしてもらうとき、相手が自分のことを配慮してくれていると思うと、ちょっと負担に感じてしまうことがある。「シャンパンタワー理論」の場合は、あくまでも自分のために自分が勝手にやったことで、結果として周囲に副産物的に恩恵が及ぶ。自分の感覚だと、ちょっとウェットな感じがあり粘つくような「やさしさ」より、スッキリ、さっぱりしている「シャンパンタワー理論」の方が、心地よいような気がする。

個人的には「やさしさ」よりは「親切」の方が好きかもしれない

自分自身の性格を省みるに、我ながら情に薄いなぁと思うことが多い。

そういう前提付きではあるけれど、個人的には「やさしさ」よりは「親切」の方が好きかもしれない。