2500年前のブロガー

昨日に続いて論語から気に入った節を引用したい。

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎、
子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。
先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね。〔そのたびに理解が深まって向上していくのだから。〕だれか友だちが遠い所からもたずねて来る、いかにも楽しいことだね。〔同じ道について語りあえるから。〕人が分かってくれなくても気にかけない、いかにも君子だね。〔凡人にはできないことだから。〕」(學而 1)

論語の冒頭の節である。学習の楽しみが素直に伝わって来る印象的な言葉だと思う。論語全体を通じて、この一節がいちばん印象的だと感じている人も多いだろうと思う。
私自身は君子ではなく小人だから、孔子の内心を小人に引き下ろして理解してしまう。その方が共感できるから。例えば、「人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。」を読むと、孔子も内心は人に理解してもらえないとくよくしていたのだと想像してしまう。もちろん、君子たるもの、そんなそぶりは見せないようにしていたのだとは思うけれど。もし、周囲に理解されないという不遇感を抱いていなければ、わざわざこんなことを語らないと思う。そして、周囲に理解されないという不遇感を感じていればこそ、「朋あり、遠方より来たる」ことが、よりいっそう楽しく感じられるのだろう。ごく身近な人には真価を理解されず、逆に、縁遠いはずの人に理解されていたということはよくある話だと思う。
この節は、ウェブログを書いている私自身の心情にも、実にしっくりくる。毎日(でもないけれど)ウェブログを書き、たまにデザインを見直すついでに読み返してみる。すると、これが楽しい。こんなにするすると納得できる文章に出会うことはない。そして、コメントやメールをもらうことは、まさに、「有朋自遠方来」である。わざわざウェブログを書いているような人は、理解してもらいたいけれど、十分理解してもらっていない「人不知」、という気持ちを抱えているに違いない。そのことを押し付けがましく表現するのは格好よくない「不亦君子」、と思いながらも、また、今日もウェブログを書いてしまっている。
論語に2500年前のブロガーを見つけた。

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)