人文系には「学問」は存在するのか

渡辺浩「東アジアの王権と思想」を読み終わった。
この本は、江戸時代の政治思想について、中国、朝鮮、日本の三か国を比較しながら論じている。同じ儒学朱子学といっても、その受容のあり方が日本と中国朝鮮とは異なっていることは漠然と知っていたけれど、相違がよく理解できた。
さて、話はやや変わるが、私は大学時代、文化人類学の学科に所属していた。ろくに勉強しない落ちこぼれ学生だったけれど、多感な時期に学んだこともあって、今でも文化人類学的な発想は骨身に染み込んでいるように思う。そのころ疑問に感じていたのは、文化人類学は「学問」といえるのだろうか、むしろ「文学」に近いものではないか、ということだ。
理科系の学問では、理論は実験によって証明される。実験で証明するには、同じ条件であれば誰が実験しても同じ結果が得られることが求められる(実際は、それほど単純なものではないという科学哲学的な議論があることはある程度知っているけれど、科学者の間では、理想的にはこのような手続きで理科系の学問は営まれるべきだという通念は存在していると思う)。
しかし、文化人類学では、理論は存在するけれど、理科系の学問のような意味での証明は存在しない。レヴィ=ストロースが主張する構造主義という理論がある。それが、レヴィ=ストロース自身によってさまざまな民族の神話の分析に適用され、ある解釈が導き出される。しかし、レヴィ=ストロースが分析をすれば、目を見張るようなきれいな結論がでるけれど、他の文化人類学者がそのような結論を導き出すことは難しい。つまり、再現性が確保されていないのである。
また、民族誌についても同じようなことが言える。同じ民族の同じテーマについて複数文化人類学者が調査しても(そのようなケースは少ないが)、同じ民族誌が書かれるわけではない。現代では、かつては調査対象となっていたような民族出身の文化人類学者が現れ、過去の民族誌の誤りを指摘するような事例もある。
証明というプロセスが存在しない文化人類学は「学問」といえるのだろうか。もし、文化人類学が「文学」とは違うといえるとしたら、証明というプロセスの代わりに、説得と納得を通した合意というプロセスがあるという点に求められると思う。文化人類学が扱うテーマでは、厳密な証明は難しい。しかし、文化人類学者は単に自分の所感を主張するだけではなく、その主張が証明できないとしても、専門家のコミュニティのなかでの議論を通じて合意を得ることを目指す。その点が「文学」と異なるのだと思う。
このところ、丸山眞男「日本政治思想史研究」、前田勉「江戸後期の思想空間」と、江戸時代の政治思想史に関する専門書を何冊か読んでみた。政治思想史の分野においても、この「学問」をめぐる問題があると感じた。
「東アジアの王権と思想」では、江戸時代中期に、日本が「泰平」であるという感覚が、異民族に支配され乱世が絶えない中国に対して優越感を持つこととなり、国学の「皇国」思想が生まれたと主張する。一方、「江戸後期の思想空間」では、江戸中期の経済発展によって引き起こされた「道徳」的な観点からは理不尽と思える社会変動に対して、それを説明する原理として本居宣長は神を信仰するようになったと主張する。
明らかにこの二つの主張は矛盾していると思う。私自身、どちらの主張が正しいのか判断できないし、客観的な立場からどちらの主張が正しいのか証明する方法はないと思う。政治思想史の学会での動向は知らないけれど、学会というコミュニティのなかで、双方の立場からの主張がなされ、合意に向けた議論が行われているのだろうと想像する。
理科系の学問では、「証明」という厳しい縛りがある。それにも関わらず、長期的には淘汰されるとしても、トンデモな主張が一定の支持をえることがある(例えば、環境ホルモンなど。もしかしたら、地球温暖化も壮大なトンデモなのかもしれない)。「証明」よりも縛りが緩い「納得」「合意」が基盤となっている文科系の「学問」では、より怪しげな主張がはびこることになる。いち素人の見方だけれども、これまで読んできた一定の評価、権威のある政治思想史の本にも、一歩まちがえるとトンデモになりかねない怪しげな主張も混ざっているように思えた。文科系の「学問」は、なかなか難しいものだと思う。専門の学者ではなく、素人として楽しむには、怪しげな主張もおもしろいのだけれども。
「東アジアの王権と思想」要約
序 いくつかの日本史用語について

  • 「幕府」という用語は、将軍が天皇から任命されたことを強調しようとする後期水戸学が用いたことが契機となり幕末に普及したものであり、それまでは一般的に使われる用語ではなかった。本書では、江戸時代に広く使われていた「公儀」という用語を用いる。
  • 江戸時代には天下を統治していた公儀が「朝廷」と呼ばれていたことがあった。「朝廷」が京都にあり、江戸には「幕府」があるという通念は水戸学的なものである。本書では「禁裏」「禁中」と呼ぶ。
  • また、13世紀初期から18世紀末までは、「天皇」の号は生前も死後も用いられていなかった。在位中は「禁裏」「天子」など、退位後は「仙洞」「新院」など、没後は「…院」と呼ばれた。1925年にすべての「…院」たちを遡って「…天皇」と呼び変えた。本書では、光格天皇以前は「…院」、「天皇」ではなく「禁裏」と呼ぶ。
  • 「藩」も18世紀後半に一般化した用語であり注意して用いる。

1 「ご威光」と象徴

  • 徳川政治体制は暴力によって成立したため、理論的正統性は薄く、体制のイデオロギーは曖昧であった。その代わりに、軍事的実力に裏付けされた将軍の「ご威光」と身分格式の序列の体系とそれを再確認する煩瑣な儀礼によって体制は支えられていた。
  • 江戸時代が進むにつれ「御威光」を裏付ける軍事的実力を発揮する機会がなく、「御威光」の空洞化が進んだ。そして、公儀は、ペリー来航後、外国と戦闘することを避けた。これは、外国によって体制が直接軍事的に解体されることを恐れたのではなく、「御威光」が失墜することを恐れたのだろう。
  • 清朝李氏朝鮮は、西洋諸国の開国の要求を断固としてはねつけ、戦争によって敗北するまで開国しなかった。一方、公儀は一戦も交えることなく開国、通商を認めていった。これまで、儒教官僚の頑迷と武士の軍事的リアリズムの対照を示すこととして説明されてきた。 しかし、イデオロギー的な正統性がある清朝李氏朝鮮は、夷狄に軍事的に破れて体制は揺るがないが、超越的な道理の支えを持たない「御威光」による支配は脆弱である。ペリー来航後わずか15年で「御威光」体制は瓦解した。その後、新たに「御禁裏様」を中心とした「御威光」の体制が作られた。

2 制度・体制・政治思想

  • 「国家」や「体制」は、人間の行為が強く実体化されたイメージ・像をよりどころとして成立する。そのイメージが体系的に文字に結晶しているときに体制の正統思想と呼べる。
  • 正統思想は、徳川期の儒学が思想史において想定されているように、権力や体制を後から追認するものとして持ち込まれたものではないはずだ。
  • そして、イメージとしての体制は、その時代の人間が自ら別のイメージを作り上げることで、体制を崩壊させてしまうこともあり得るのである。

3 儒学史の異同の一解釈

  • 宋代から清代までの中国と徳川時代の日本の儒学思想の歴史は類似点があるが、一方で対照的でもある。その相互比較を試みる。
  • 中国において、宋代に科挙制度が確立し、儒学的教養を持つ「士大夫」による「学者支配」が成立した。そして、「功利」を否定し「義理」を追究する原理主義的規範主義的な朱子学が正統思想となった。これは、特権的かつ純粋な精神労働従事者である「士大夫」による支配を正当化するために、儒教的教養の権威を超越的なものに結びつけ、公益に献身していることを示す必要があったからである。しかし、実際には、科挙や政治の現場は「功利」を求める場であり、朱子学の思想とその内実の乖離と矛盾は大きくなり、思想の形骸化が進んだ。清朝において、儒学者たちは公式には朱子学を信奉しつつ、「理」に反発し「情」の重視することや古典の考証などが流行することになった。
  • 日本においては、中国のような「学者支配」は成立せず、儒者は統治に直接関与することは少なかった。朱子学は、皇帝から庶民まで同じ「理」を追究することを理想とする思想である。しかし、日本は個々の「家業」に忠実であることを求める「家職国家」であり、普遍的な「理」の貫徹とは相反する。このため「家職国家」に即した形で「理」を理解した朱子学が普及した。朱子学徳川時代の正統ではなく、また、中国朝鮮の朱子学ともかなり異質だった。
  • また、「学者支配」がない日本では、正統性の確保のための「義理」の追究「功利」の否定は必ずしも求められていなかった。このため、朱子学の「理」を否定し、厳粛な規範主義、理想主義を嫌悪し、「道」と「俗」の合致を求める試みがなされた。伊藤仁斎東崖親子は、「人情」を通じた相互の「愛」を通じた共存を主張し、「理」を信じ普遍的正義を追究する態度を否定した。荻生徂徠は、治者の操作によって民の行動様式を制御し、社会の秩序を保つこと主張した。さらに、朱子学批判の学として本居宣長が現れた。朱子学批判という文脈で中国と日本は共通するが、その間には大きな懸隔があった。

儒者・読書人・両班

  • 徳川時代儒学的「教養」の担い手である「儒者」と同時代の中国の「読書人」、朝鮮の「両班」を比較する。
  • 清朝では「読書人」の社会的・政治的支配があった。形式上すべての民に開かれた科挙制度を通じて官僚となり、政治に参与した。儒学的教養が現実の政治体制と密着することにより、教義の信奉が権力・利益の追究の手段となるため、その信条としての活力が人々との心の中で失われやすくなる。俗悪な科挙の学となった朱子学への嫌悪が、考証学の興隆に繋がった。しかし、体制の正統思想である朱子学の否定は難しかった。
  • 朝鮮でも朱子学を標準学説とする科挙を通じて「両班」による支配が成立していた。中国と異なり「両班」には、世襲的な身分の観念があった。しかし、「両班」階級であっても、科挙及第者が出なければその地位が失われる。その点で、家柄と禄と職が自動的に対応した日本とは異なる。「北狄」である満州族による清朝が成立してから、正統な中華文明の唯一の体現者との自意識が確立し、朱子学による支配が中国以上に徹底した。
  • 徳川時代の日本は、一種類の「教養」が統治を裏付けている体制ではない。その結果、雅俗様々な「芸」や「道」が競い合い、影響しあう状況となった。諸芸のなかで、儒学は統治者にとっての修養の教えであり、文官化した武士と適合的だった。18世紀半ば過ぎに藩校などが作られ儒学の教育が行われ、武士階級における身につけるべき素養となった。
  • 一方、儒学の専門的な担い手である「儒者」は、武士・町人・百姓の通常の身分の外にあった。儒者の出身階級は、武士、町人、百姓と様々であり、元の身分はあまり意味を持たなかった。儒者には、町で塾を開き生活の糧とする「町儒者」と将軍・大名に仕える「御儒者」があった。「御儒者」であっても、新井白石横井小楠などを例外として、政治への参与は限定的だった。日本における儒学は体制と結合せず、地位と生活も多様だったこともあり、学問の内容も多様であった。そして、その多様化は「国学」や「蘭学」などの思想潮流も生み出した。

6 「泰平」と「皇国」

  • 賀茂真淵を初出として、諸外国に対し日本自国を称える「皇国」という用語が使われるようになった。賀茂真淵本居宣長などの「皇国」意識の成立には、対外危機感ではなく、「泰平」の世への自己満足、誇りが背景にあった。
  • 18世紀後半、都市においては豊かな繁栄と永続的安定の時代とする意識は稀ではなかった。荻生徂徠はあらゆる体制も永続しないと考え、徳川の支配にも危機感を持ち、将軍吉宗に提言していたが、受け入れられることはなかった。しかし、徂徠死後、天下は乱れず、泰平の時代が到来した。このため、徂徠学の政治的側面の有用性が疑問にさらされ、徂徠の弟子たちに政治離れが進んだ。また、日本は中国と異なり、人為的な「礼楽」を必要とせず、自然と治まるとする考え見られるようになった。
  • 賀茂真淵は、そのような議論を利用し、「皇国」の「唐国」への優位を主張した。泰平の世を背景として、中国はそもそも乱れる国柄であるため「聖人の道」が必要とされ、「聖人の道」があっても乱れるが、自然と治まる「皇国」として日本の優越性を主張した。この「皇国」の世界像は、国内の「泰平」が外圧に脅かされるようになって、一層高揚した。

8 西洋の「近代」と儒学

  • 西洋の近代、特に「民主」と儒学の関係については様々な見解がある。ここでは、「民主」の実現が儒学にかなうものとする見解について検討したい。
  • 儒学的知識人は、西洋は儒学の基本的な価値である仁や公を実現したもの映ることがままあった。儒学では、「仁」、すなわち万物への愛を至高の徳とする。この仁の観点が、西洋における病院、孤児院、救貧院などの施設に対する関心の高さの背景にあるだろう。また、西洋では人間が尊ばれており、仁が実現しているとする儒学者の指摘もある。学校制度と人材登用の仕組みも仁政として憧憬の対象となった。
  • 朱子学において、「理」は、公共、公平、公明な「公」なる性格を持っているとされている。このような思想的伝統から、西洋の議会制度や共和制は、素直な共感や尊敬の対象となった。明治維新の五箇条の御誓文は、西洋の政治体制に共感した横井小楠の国是三論を基礎としている。「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ。」とは、儒学的な観点から理想化された西洋像を日本の模範として採用することの宣言である。

8 「進歩」と「中華」

  • 「進歩」の観念は批判されつつも、強固に生き延びている。「進歩」の観念の特徴を三点指摘する。第一点は、「進歩」を評価する普遍的な価値基準の実在を信じること。第二点は、「進歩」を実現する人間一般の能力を信頼すること。第三点は、知識の増大、社会の複雑化、産業の発展が、人間の道徳的な進歩と平行して進むということである。では、この「進歩」の観念が、中国と日本にどのように受容されたのか、整理してみたい。
  • 中国の伝統思想においては、循環史観、往復史観が主流だったといわれる。この観点からは、歴史の「進歩」は否定される。ただし、上古の野蛮状態から文明状態に移行したという観念があり、文明化が不十分な周辺地域を「夷狄」とする発想は、「進歩」の観念に通底する。
  • 日本においても、儒学国学に共通し、理想的な「世」を「古」に想定する考え方が広くあった。荻生徂徠は、乱世が収まり泰平の世になると奢侈が進み、人心が悪化し道徳が乱れ再び乱世に至るという循環史観を持っていた。しかし、海保青陵など奢侈化などの不可逆的な変化が持続的に起きているという認識もあった。ただし、「進歩史観」と異なり、その変化を肯定的に捉えらえいなかった。
  • 江戸時代には持続的な変化が肯定的に捉えられていなかったにも拘らず、なぜ、明治に入ると「文明開化」が反発されず、真剣に追究すべきことと考えられるようになったのだろうか。江戸時代において中国から儒学の摂取が試みられたが、中国から日本が「夷狄」と位置づけられいた。これに対し、「夷狄」観念を相対化し、自らが「中華」化したいという希望があった。「文明開化」とは、西洋を「中華」とすることで「夷狄」観念を相対化し、自らが「開化」することで「中華」になることだったのではないか。
  • civilizationの概念は「中華化」と親和的だった。civilizationによる向上は人々の道徳的な向上の意味を含んでおり、「夷狄」から「中華」への移行と重ねあわせてみられた。明治の人々にとって「文明開化」は「中華化」でもあった。

東アジアの王権と思想

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日本政治思想史研究

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江戸後期の思想空間

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