保守とは
今、柳田国男「木綿以前の事」(岩波文庫 asin:4003313836)を読んでいる。
柳田国男の作品のなかではあまりメジャーなものではないけれど、意外な事実が示されていて、読んでいて楽しい。
表題作の「木綿以前の事」とは、木綿が普及する以前にふつうの人たちが着ていたものに関する考察である。綿花の栽培が普及するのは江戸時代である。江戸時代以前、一般庶民にとっては、絹は高級すぎるから、主に麻布を着ていたという。考えたことはなかったけれど、昔から木綿があったわけではないから、ごわごわとした麻を直接身につけていたことになる。そして、糊を強くきかせた木綿の浴衣を着るのは、「麻の気持ちの心持を遺していた」ものだとという。
この本のなかには、このほかに衣食住の変遷についてさまざまなテーマが扱われている。餅を搗くための柄がついている横杵はあまり古いものではなく、かつては、ウサギの月見の縦の杵が使われていたという。縦の杵と臼では、いま食べている餅は搗けず、米を粉にするために使われていた。だから、横杵が普及するまでは、鏡餅も米の粉を固めた団子のようなものだったという。
最近ではこういった生活にかかわる歴史の研究も進められているのだろうけれど、江戸時代以前になると、基本的な衣食住のことでもまだよくわかっていないところが多そうだ。「木綿以前の事」が現在の研究水準からみてどの程度のものなのかはわからないけれど、身近なものの意外な変遷を発見する柳田国男の問題設定の巧みさもあって、読み物としては興味深い。
柳田国男は、今ある衣食住が理想的とはいえないけれど、それなりの経緯があって今の形になっているから、生活改善は、そのことを十分理解しなければ成功しないだろうという意味のことを繰り返し強調している。いわゆる保守主義というのは、こういうことなのだと思う。つまり、過去のさまざまな変遷の結果として現在がある。その変遷には意味があるあり、それを尊重すべきだと。
復古を目指す伝統主義的な主張は、この意味での保守とはほど遠いと思う。例えば、家族の価値を見直すべきとの主張がある。しかし、現在、家族のありようは大きく変化しており、その変化にはそれ相応の理由がある。現在の家族のあり方が問題がないわけではないだろうけれど、そのように変化してきた理由を踏まえなければ、望ましい家族のあり方を考えることはできないだろう。
アメリカのいわゆる「ネオコン」も、こういった意味での保守とはいえない。「ネオコン」の出自は、民主党左派であったというけれども、たしかに、自由と民主主義という価値を、それぞれの国の歴史を考慮せずに貫徹すべき、という考え方は、保守主義とはかけ離れている。
柳田国男は、生活改善運動に関してこのようなことを書いている。
善人であるが世の中のことは考えないという人がある。……西洋でもかつて慈善心に富んだ奥方といった者は、二頭立ての馬車に乗って一週に一度ぐらい、賈銀貨を配って歩いた人のことであったが、日本の旧式節約にもそんな例が多かった。たとえば廃物利用といって古葉書を編んで夏座布団を作り、女中を渋屋に遣わして渋を塗らせる。しかもそのために費やした自分たちの労力は無代と評価してあるから安いのである。内職に生活している裏店の女房などにこれを教えようとしたら、「馬鹿にしているよ」の一言をもって拒絶せられること受合のものである。……
……
わかりきったことだが、道を行わんとすればまず大いに学問をせねばならぬ。未来のために画策しようとする者は、殊に今までの経過を考えてみる必要があるのである。……
見方によっては、「ネオコン」は、柳田国男がいう「善人であるが世の中を考えていない」という類かもしれない。たしかに、「未来のために画策しよう」としならが、「大いに学問」をしていない人ほどたちが悪いものはない。