- 作者: 阿川弘之
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/11
- メディア: 新書
- 購入: 3人 クリック: 42回
- この商品を含むブログ (60件) を見る
親から借りた阿川弘之「大人の見識」を読んでいたら、孔子について次のように書いてあった。
……前にも一部紹介しましたが、福原麟太郎先生が随想の中で、
「論語ごとき、実に叡智の文学であるかも知れない。これを聖典として読まず、伝記的言行録としてみれば、友あり遠方より来る、また楽しからずやにも、無量の文学的愉快と有益とが含まれている」
と言っておられるのに、あらためて全面的賛意を表したい。
私も「全面的賛意を表したい」。儒学の信奉者によってさまざまな解釈が行われてきたとはいえ、孔子その人の人柄がしのばれる論語が現在まで伝えられたことは幸いである。
さきのエントリーでは信奉者によって曲解されている人の代表として、カール・マルクスを書き忘れていた。共産党には共感できないが、マルクスの著作を読み返すと、その洞察力には感心させられる。いかにイギリスにおいて産業革命がいち早く起こったとはいえ、日本でいえば明治になる前、幕末の頃に書かれたものとは思えない。
例えば、「共産党宣言」の中に次のような一節がある。
ブルジョア階級は、歴史において、きわめて革命的な役割を演じた。
ブルジョア階級は、支配をにぎるにいたったところでは、封建的な、家父長的な、牧歌的ないっさいの関係を破壊した。かれらは、人間を血をつながったその長上者に結びつけていた色とりどりの封建的きずなをようしゃなく切断し、人間と人間とのあいだに、むきだしの利害以外の、つめたい「現金勘定」以外のどんなきずなをも残さなかった。かれらは、信心深い陶酔、騎士の感激、町人の哀愁といったきよらかな感情を、氷のようにつめたい利己的な打算の水のなかで溺死させた。かれらは人間の値打ちを交換価値に変えてしまい、お墨つきで許されて立派に自分のものとなっている無数の自由をただ一つの、良心をもたない商業の自由と取り代えてしまった。一言でいえば、かれらは、宗教的な、また政治的な幻影でつつんだ搾取を、あからさまな、恥知らずな、直接的な、ひからびた搾取と取り代えたのであった。
「ブルジョア階級」という言葉を「アメリカ」に代えれば通俗右翼の、「ヒルズ族」に代えれば通俗清貧派の、「グローバリズム」に代えれば反グローバリズム派の主張にそのまま使えそうである。
伝統や国家ということを深く考えていない、ごく通俗的な右翼の主張は、どうもマルクスに似ていることが多い。一時期、よく耳にした「ネオコン」の源流は左翼にあるという。通俗右翼も、共産党に失望した転向者が多いような印象がある。だから、発想がマルクスに通じるように思う。彼らも、ある意味、マルクスの不肖の弟子たちなのだろう。