テクストの快楽

大学生の頃に「ニューアカ」ブームと言われるものがあり、フランスのポスト構造主義の思想家たちを紹介する書籍が売れるということがあった。私もベストセラーになった本を何冊か買って読んでみたけれど、分かったような、分からないような、結局のところよく分からなかった記憶がある。それも当然の話で、ポスト構造主義の思想家は近代のヨーロッパの思想を克服することを目的としていたにもかかわらず、その当時、私自身は近代思想を理解していなかったから、ポスト構造主義がわかるはずもなかった。
最近、ロラン・バルトの「物語の構造分析」を読み返してみた。バルトは言葉にできないものを言葉で表現しようとしている上に、翻訳の問題もあるから、すらすらと頭に入ってくるというわけにはいかない。しかし、以前よりはぼんやりとだけれども、理解できるように思った。このウェブログで私がやろうとしていることは、もしかしたら、バルトのいう「テクストの快楽」に近いことかもしれないという気がした。
例によってバルトの言葉を引用しようと思う。全文読んでみてもよくわからないのだから、引用だとさらに分かりにくくなってしまうかもしれない。

……一編のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、その多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場にあつめておく、あの誰かにすぎない。(p88-89)
「作者の死」
……テクストは、あるディスクールにとらえられて、はじめて存在する。(あるいはむしろ、そのことを知っているからこそ、「テクスト」である)。「テクスト」は作品の分解ではない。作品のほうこそ「テクスト」の想像上の尻尾なのである。あるいはまた、「テクスト」は、ある作業、ある生産行為のなかでしか経験されない。
……「テクスト」の読書は、全面的に、引用と参照と反響とで織りなされている。つまり、それ以前または同時代の種々の文化的言語活動(文化的でない言語活動があろうか?)が、広大な立体音響のなかで「テクスト」を端から端まで貫いているのだ。(p98)
……「テクスト」はといえば、享楽、つまり距離のない快楽と結びつく。記号表現の秩序である「テクスト」は、それなりに社会的ユートピアの性質をおびる。……「テクスト」とは、いかなる言語活動も他の言語活動の優位に立たず、すべての言語活動が(循環する、というこの用語の意味をも保ちつつ)交流する空間なのである。(p104)
「作品からテクストへ」

私なりに、これらの引用部分を解釈してみたいと思う。
エクリチュールとは「書かれたもの」という意味のフランス語という。ここでは、個々の文芸作品のことを指していると思う。文芸作品はそれぞれ独立して存在しているのではなく、引用し、パロディー化し、異議をとなえるという形で影響を与えあっている。そのような影響を与えあっている文芸作品群全体をテクストと呼んでいるようだ。そのようなテクストを享受できるのは、個々のエクリチュールの作者ではなく、それを享受する読者なのである。しかし、単なる受動的な読者はテクストを享受することができない。テクストが立ち現れるのは、読者がそれをディスクールにとらえる、すなわち、説明しようとしたときである。テクストという地平では、エクリチュールの作者のような特権的な存在はなく、どのような言語活動も平等に交流することができるのである。
原文のフランス語を読めるわけではないので、大いに誤解もありそうだけれども、私自身はだいたいこのように理解した。
私のウェブログでは、おおげさに言えば、「テクスト」を「ディスクール」にとらえることを目指している。さまざまな文章、文芸作品を読み、それらの作品が自分のなかで交差する瞬間について書こうとし、それができたときに、テクストが存在する、テクストの快楽を味わうことができるのだろう。
作品同士が自分のなかで交差する瞬間は、それらの文章、作品の作者が意図して引用し、パロディ化し、異議を唱えているときもあり、作者には全くそのような意図はないけれど、読者としての私のなかだけであたかも引用されているように交差する場合もある。後者のとき「テクストの統一性は、テクストの起源(作者)ではなく、テクストの宛て先(読者)にある」と言えるのだろう。
例えば、「実証主義社と論理主義者」というエントリー(id:yagian:20080505)をバルト風に説明すると、ヘンリー・ミンツバーグという経営学者によるエクリチュールとエドマンド・リーチという社会人類学者によるエクリチュールが私のなかで交差した瞬間をとらえたディスクールであり、そこにひとつのテクストが現れ、私自身がそれを快楽したということなのだと思う。

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