ポルトガル、ベナン、コンゴ、安土桃山ー文化の三角測量

しばらく前に読んだ川田順造「「悲しき熱帯」の記憶 レヴィ=ストロースから50年」のなかで印象的だった部分を紹介したい。
話題は、大航海時代ポルトガルの影響である。日本の歴史のなかでもポルトガルの来航、鉄砲とキリスト教の伝来は、戦国時代を終結させ安土桃山時代、江戸時代への道筋をつけるという意味できわめて大きなものだった。そのような影響は日本に限らず、ポルトガルの来航先のさまざまな地域にも及ぼされた。

 ポルトガルとの交渉は、ベニン王国では十五世紀末から百年足らず、日本でも十六世紀中頃から後半にかけての五十年にもならない短い期間にすぎなかったが、はじめて見る、海の彼方から渡来した西洋人とその文化は、アジア・アフリカの各地で人々に鮮烈な印象を与えたにちがない。

…ベニン王国にはじめてポルトガル船が到達した(一四八五年)直後から、ポルトガル王は兵士とともに宣教師を送りこみ、ベニンの王(オバ)に熱心に入信を勧めている。…探検航海や交易・軍事征服や植民と、キリスト教の布教とは切り離せない関係になった。ポルトガル兵がもっていた火縄銃をオバは欲しがったが、ポルトガル側はオバがキリスト教徒にならなければ銃は渡せないといい、オバもポルトガル語を習うほどポルトガルに傾倒しながらも、頑なに入信を拒み通した。
…これとは対照的に、中部アフリカのコンゴ王国では、王自身が入信してアフォンソ一世と名乗り…ポルガルは…日本で大名たちにしたのと同様、支配者をとりこんで布教と交易の実をあげようとしている。だが、建国神話上の英雄の子孫とされていたコンゴの王は、自身がキリスト教徒になり、国全体をキリスト教ポルトがある文化で再組織しようと企てたことによって、王権存立の基礎を失う。同時に奴隷の入手を第一の目的としていたポルトガルとも対立する結果になり、ポルトガル軍との戦い(一六六五年)で敗れたあと、コンゴ王国は急速に衰退に向かう。

 アフリカ大西洋岸でのベニンやコンゴの王たちの、ポルトガルの進出のこうした対応を、一四五三年とされる日本の種子島へのポルトガル人の漂着から、ポルトガル王室が庇護するイエズス会の布教活動を経て、一五八七年の秀吉おバテレン追放令(ポルトガル本国は、すでに一五八〇年フェリーペのスペイン併合で、一六四〇年までに消滅していたのだが)と対比してみると、二つの”南蛮時代”の重要な相違と同時に、共通点もあることに気づかされる。鉄砲は、日本では種子島への漂着ポルトガル人から買いとったか、あるいは倭寇がもたらしたものをもとに国産化に成功し…鉄砲を結局国内で生産できなかったアフリカの王国との著しい違いだ。
 日本というレベルで「君主」というべき権力者として信長や秀吉を考えるとすれば、彼らはキリシタンに寛容で交易は望んだが、彼ら自身はキリシタンにならなかった。…
 だが国家としての統一のない当時の乱世日本の、九州をはじめとする地方大名のレベルで「君主」を考えるとすれば地方大名がむしろベニンやコンゴの王と共通点を示している。日本の大名もベニンの王と同様、交易を掌握しており、南蛮貿易の利益によって他の大名たちとの競合で優位に立とうとした。

キリシタン大名は、奴隷輸出をはじめとする交易重視の点ではベニンの王と、大名自身キリスト教徒になった点ではコンゴの王と似通っている。秀吉について、その死後一時は寛容だった家康が結局はキリシタン禁止に踏み切った(一六一二年)のも、日本というレベルでの君主としての彼らの政策が、地方レベルでの君主であるキリシタン大名の政策を許容できなかったからに他ならない。
(pp143-152)

最近では、日本の歴史を東アジア、東南アジアの中に位置づけ、戦国時代、安土桃山時代奴隷貿易も含む交易という視点からの研究もよく見かける。しかし、ポルトガルの来航で同じように影響を受けたアフリカの王国との比較ははじめて見た。
川田順造は「文化の三角測量」ということばを提唱している。測量する時、単に二点間の距離を測量するのではなく、三角測量をすることでより精密に距離、位置関係を把握できるように、日本、フィールドワーク先のアフリカ、そして、学術研究の拠点としたフランスの三つの文化を比較することで、それぞれの文化の特性をより明確に把握することができる。
この一節は、日本、ポルトガル、アフリカの見事な三角測量になっていて、実に新鮮である。日本の近代化と西洋の関係の特殊性についてよく指摘される(「坂の上の雲」も)が、その他の地域における西洋との関係、近代化の特性と「三角測量」によって比較された研究をあまり目にしたことがない。
まだまだ探求の道は遠い。