「カタカナ語」追放運動
最近の記事では、なるべく外来語のカタカナ表記を使わず、なるべく原語で表記することにしている。慣れないと読みにくいかもしれない。
外国語の単語を日本語に取り入れて表現の幅を広げたいという気持ちはよくわかる。なるべく外来語は使わずに書くべしと主張する人もいるけれど、日本語には対応する単語がない概念を表現するには外来語のカタカナ表記が簡単である。
いささか古い例だが、森鴎外「当流比較言語学」という随筆では、Germanにあって日本語にない概念について書いている。
GermanにはStreberという言葉があり、出世するために上司などに阿諛迎合しながら努力をする人を指すという。嘲りの意味も含んでいる。しかし、日本ではStreberに当たる人を指す嘲りの意味を含む言葉がないという。それは日本ではStreberを卑しむという思想がないからだという。
現代日本でも「ストレバー」という外来語は定着していないけれど、もし、このような人を嘲ろうとすると、日本語では説明的になってしまうのは確かだ。
しかし、カタカナ表記の外来語は、原語の意味を離れていくことが多い。しばらく前、「やっぱり「アーティスト」「エコノミスト」という言葉は嫌いだ」(id:yagian:20131129:1385673736)という記事を書いたが、この二つの言葉は独自の意味を持つようになったカタカナ表記の外来語の典型例だと思う。
カタカナ表記の外来語は、単に語源が外国語であっただけの日本語だから、日本語として独自の意味を持っていも問題ないという意見もあるだろう。しかし、私はそのような言葉に抵抗がある。もし、日本語としての「アーティスト」ではなく、Englishとしての"artist"の意味を表現しようと思った時、どうすればよいのだろうか。
森鴎外の文章を読んでいると、唐突にFrenchやGermanの単語が原語のまま登場することがある。森鴎外の真意がやや理解できない場合もあるのだが、おそらくは「当流比較言語学」で書かれているように日本語にはない概念を、外来語として定着していない外国語で表現したいときにこのような表記をしていると思われる。
また、Internet上で外来語や固有名詞のカタカナ表記がされているとき、Googleなどで検索しようとすると、いったん原語の綴りを調べてそれから検索をしなければならない。最初から原語で書かれていれば検索の手間がひとつ減る。
文章を書く側としては、あまりに外国語が多すぎる文章は読みにくいから、外国語の単語を使うときには十分吟味することになって、かえって安易に外国語を使うことがなくなる。カタカナ表記の外来語が氾濫することを防ぐことにもなるだろう。
「カタカナ語」の濫用に反対という意見は見たことがあるが、「カタカナ語」をやめて原語で表記すべきという意見を聞いたことがない。孤独な戦い、という気分である。