おすすめPodcast:"The Indicator"と"5 Things"

おすすめPodcast:短いもの

以前もお気に入りのPodcastを紹介したことがある。また、最近、新たに聞き始めて気に入っているPodcastがあるので改めて紹介したい。

yagian.hatenablog.com

Podcastの魅力のひとつとして、時間制約がゆるいということがある。ラジオの番組だったら不可能な長時間のインタビューをそのまま放送したり、ひとつのテーマをじっくりと掘り下げることが可能になる。

しかし、長時間のインタビューを聴いている時間がないこともある。長時間の番組だと繰り返し聴いて細かいところまで理解するということが難しく、どうしても聞き流して大意をつかむということになる。

Podcast作成者側もそのことに気が付き始めたのか、長時間の番組のスピンオフとして、短い番組を提供するという例が現れてきた。最近は、そうした短いPodcastを聴く聴く機会が増えている。もちろん、英語のPodcastを聞き慣れていない人にとっても、短い番組のほうが敷居が低いだろう。

 "The Indicator" by NPR

上記のブログで紹介した"Planet Money"のスピンオフ企画で"The Indicator"という番組が始まった。

www.npr.org

”Planet Money”は30分弱ぐらいの長さで、経済に関わる特定のテーマを掘り下げたレポートをする番組である。切り口がユニークで興味深い。

"The Indicator"は、毎回ひとつの指標、数値を取り上げて、それについて10分以内、6~7分にまとめる番組である。"Planet Money"のような着眼点のユニークさはあるし、より時事的な内容になっている。例えば、雇用者数の統計が発表されたときは、すかさずその数値をテーマとした番組になる。

www.npr.org

コンパクトな分、結論も明確に示され、よりわかりやすい内容になっている。7分ぐらいだったら集中力も続く。

"5 Things" by USA Today

”5 Things”は、前日のニュースのなかで知るべき5つの事柄を5分以内に紹介する、というコンセプトの番組。実際、4分を切るぐらい短いことが多い。USA Todayが製作しているので、冗長さはなく平易でシンプルなため、ノン・ネイティブにとってはありがたい。

アメリカのごく普通の人がごく普通に興味を持つテーマが分かり、その意味でもなかなか興味深い。

art19.com

 

世の中には嘘をつく人と嘘をつかない人という二種類の人間がいる:ドナルド・トランプ、レックス・ティラーソン、財務省

嘘をつく人(ドナルド・トランプ)、嘘をつかない人(レックス・ティラーソン)

レックス・ティラーソン国務長官トランプ大統領に解任された。

もともと考え方の差も大きかっただろうし、ティラーソン元国務長官トランプ大統領に対してあまり忠誠心あるようには見えなかった。トランプ大統領としては、北朝鮮問題で目立つ「手柄」を上げたいと考えているのだろうし、ティラーソン元国務長官はその助力をしたいとは考えていなかったのだろう。だから、このタイミングで解任したのだと思う。トランプ大統領は、スタッフを解任することになんの躊躇がない。

私が興味を感じたのは、トランプ大統領との不和の原因のひとつとなったとされるティラーソン元国務長官の記者会見だ。ティラーソン元国務長官は、トランプ大統領をプライベートな場で「間抜け」呼ばわりをしたという疑惑に対して、話をそらして否定することはしなかった。ティラーソン元国務長官は、実際に「間抜け」呼ばわりをしていたのだろう。

おそらく、トランプ大統領やその同類の人が同じ立場にあれば、躊躇なく「間抜け」呼ばわりなどしていない、と否定したに違いない。彼らは嘘をつくことに抵抗感がないし、嘘をつかないことで大統領への忠誠心を疑われるような選択をすることが賢い行為だとは思っていないだろう。

一方、ティラーソン元国務長官は、トランプ大統領との関係がより悪化することを知りながら、嘘をつかないことを選択した。

世の中には嘘をつく人と嘘をつかない人という二種類の人間がいる。

財務省はなぜ文書の改竄、書き換えをしなければならなかったのか

森友学園への国有地売却を巡る決裁文書」の改竄、書き換えについて、マスコミ、ネットではさまざまな報道、コメントが飛び交っている。それらのなかに、私の興味に応えてくれる情報、解釈がないことにフラストレーションを感じている。

私の興味は、なぜ、改竄、書き換えをしなければならないような決裁文書が書かれたのか、という問題である。改竄、書き換え前の文書には、安倍昭恵夫人や政治家の名前が並べられているが、それらの名前がなければ決裁文書として成立しないかと言えば、必ずしもそうとも言えないようにも見える。もし、流出すれば危険そうに見える文書が、私的なメモではなく、わざわざ決裁文書として起案され、承認を得たのだろうか。

以下は、私個人のまったくの想像である。

森友学園への国有地売却について、財務省内部で特別な説明を要する特殊異例な配慮があった、ということなのだろう。この売却の決裁を財務省内部で通すためには、さまざまな政治家が関与したという経緯を示す必要があった。そして、そのときは、この文書が外部に流出することはまったく想定していなかった。

森友学園への国有地売却が国会で取り上げられ、問題視されるようになると、この文書の存在がいかにも危険なものになる。佐川元理財局長の国会での答弁とも矛盾をきたす。その結果、佐川元理財局長の国会での答弁に合致させるような形に改竄、書き換えをしたということなのだろう。

国有財産売却に関して、この種の特殊異例なケースというのはどのくらいあるのだろうか?たまたま森友学園は注目を集めたが、これが唯一の事例とは思えない。そうであれば、注目を集めていないけれども極めて危険な国有財産売却に関する決裁文書が他にもあるのではないだろうか。もしかしたら、問題化する前に組織的に改竄、書き換えがなされているかもしれない。

なぜ嘘をつかない人は嘘をつかないのか

トランプ大統領は、その時ごとに自分の都合のよい発言をする。発言の一貫性や真実性は気にしないから、公然と嘘をつくことも多い。そのことに倫理的な罪悪感を感じている様子はまるでないし、むしろ賢い行為をしているとすら思っているかもしれない。この種の嘘をつく人はたまに見かけることがある。

 一方、ティラーソン元国務長官は、嘘をつかないという倫理観を持っているため、その記者会見では明らかに不自然な振る舞いになってしまったし、不自由に見える。その点、トランプ大統領は自由に言いたいことを言っている。

私は、個人的にはティラーソン元国務長官の不自由さはよくわかる。私の場合、相手が誰であっても同じことを言う、という個人的な倫理観、というか、嗜好がある。だから、陰口は好きではない。もちろん、誰か他人のネガティブなことを言いたくなることはあるので、そのときは、まず、本人に対して直接ネガティブなことを言って、ようやく安心して別の人にその人に関するネガティブなことを言うことができるようになる。これをきちんと貫徹するのはけっこう面倒だし、社会生活、職業生活上の不都合も多い。だから、このように振る舞うことはまったくお勧めしない。

考えてみれば、嘘をつかないという倫理を貫徹するのも、けっこう面倒で、社会生活、職業生活上の不都合も多いだろう。実際、トランプ大統領のような人の元でティラーソン元国務長官が働く上で、大きな不都合が生じた。

なぜ嘘をつかない人は、そのような不都合にもかかわらず、嘘をつかないのだろうか、急に不思議になってきた。

ヒルビリー・エレジー

ヒルビリー・エレジー」

トランプ大統領当選の要因の一つとして、いわゆるラストベルトの貧困に陥った白人層の支持があったといわれている。最近、鉄鋼やアルミニウムへの関税が話題になっているが、これは彼らを意識した政策なのだろう。

この「ヒルビリー・エレジー」は、まさにそうした白人のコミュニティに生まれ育った作者の半生が描かれており、当時アメリカでベストセラーとなった。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

ヒルビリーとは、18世紀にアメリカに移民したスコッツ=アイリッシュの末裔で、オハイオ州ニューヨーク州からアラバマ州ジョージア州にまたがるアパラチア山脈(グレーター・アパラチア)に住む人々で、アメリカ北東部に住む「WASP」とはアイデンティティを異にする集団である。ヒルビリーたちにとって、貧困は「代々伝わる伝統」 という。「先祖は南部の奴隷経済時代に日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。近年では、機械工や工場労働者として生計を立てている。」

作者は、アパラチア山脈に住むヒルビリーの子孫で、祖父は製鉄所に労働者として勤務していた。祖父は安定した収入を得ていたが、子、孫の代になると典型的なラストベルトの貧困層に落ち込んでしまう。作者自身は、高校卒業後に海兵隊に入隊したことが大きな転機となり、最終的にはイェール大学のロースクールに進学し、成功を収める。もちろん、ヒルビリーのなかでアイビーリーグの大学に進学、さらに言えば、大学への進学する人も少ないという。

左翼に見捨てられた人々

ヒルビリーたちは、アメリカに移民したときから現在に至るまで、貧困がつきまとっているという。しかし、それでも中西部に工場が進出し、労働者として雇われていた時代は、労働組合の存在もあり、比較的恵まれた時代を過ごしていたようだ。製鉄所に勤めていた作者の祖父は、労働組合への帰属意識が強く、民主党支持者だったという。

しかし、アメリカでの重工業が衰退し、工業地帯がラストベルトと呼ばれるようになると、当然、雇用が減少し、工場労働者を組織していた労働組合の力も衰え、ヒルビリーたちはより困窮する。そんなとき、左翼からは手が差し伸べられなかった。

私は左翼を好んでいないので辛口になってしまう。左翼は、社会のなかで恵まれない人々の側に立つことを目指しているのだろう。しかし、あらゆる恵まれない人々の側に立つのではなく、恵まれない人のなかで「選り好み」があるように見える。

労働組合が衰退した後、左翼の重点はマイノリティへ移ったようだ。ヒルビリーたちは、労働組合から放り出されてより厳しい立場になったとき、マイノリティとはいえない彼らは左翼に見捨てられてしまった。

彼らが民主党に投票しないのは当然の結果のように見える。

多様性(ダイバーシティ)の厳しさ

ヒルビリーたちは、現代のソフィスティケートされた都会の人たちから見ると、非常に「荒くれている」ように見える。銃を持ち歩き、暴力は日常茶飯事で、家族が侮辱されると無条件で反撃しなければならないと考えている。アパラチア山脈で孤立した生活をしているときは、文字通り自分の身は自分で守らなければならなかったのだろう、そのときの文化を現代でも引きずっているように見える。そして、そのような文化が、現代のアメリカの主流の社会に入ることを妨げ、貧困から抜けられない大きな原因となっている。

多様性(ダイバーシティ)を重視するのであれば、そのようなヒルビリーたちの文化も尊重しなければならない。しかし、主流の社会とさまざまな摩擦がある。例えば、ヒルビリーたちは銃規制に反対する人が多い。東海岸の大都市のインテリとは、お互いほとんど共感しあうところがないだろう。

これはどうすべきなのか。文化人類学者がカンニバリズムに遭遇したらどのような態度を取るべきか、そのような問題に似ていると感じた。

理不尽な特訓の意味(海兵隊のブートキャンプ)

上にも書いたが、この作者は海兵隊に入隊し、新兵の訓練、ブートキャンプを経験して大きな転機をつかむ。

海兵隊は、まったく何も身についていない人が新兵となることを想定し、基本的な生活習慣を含め、一から身につけさせるという。一種の教育機関として機能を持っていることがわかる。しかし、その方法は、極めて厳しく、いっかいとことんまで個人の尊厳を否定するような理不尽な特訓を体験させる。

私は、体育会系になじめない方だ。だから、理不尽な体育会系の特訓は受けるつもりはないし、意味がないように思っている。しかし、この海兵隊のブートキャンプは、少なくともこの作者にとっては大きな肯定的な意味を持っていた。

確かに、海兵隊には自ら志願するのだが、民主的な社会のなかでこのような理不尽な特訓にどういう意味があるのか、考えさせられてしまった。答えはでないけれど。

スノビッシュのつもりはなくてもスノビッシュに見えてしまう(のか?)

スノビッシュなやりとり?

大学時代からの友人の稲本と、Facebook上で次のようなやりとりをした。このやりとりは、そのつもりはなくともスノビッシュに見えてしまうもしれない、と気になった。

Inamoto Yoshinori まあ、東京の飲食方面を肯定的にとらえれば、擬似的に空間をつくってそこで酒を飲んだり(イングリッシュパブ風のものをつくるとか)、文脈を持ってきてストーリーを楽しんだり(うんちくを語るのはこれかな?)、別種の楽しみを見つけたりして遊んでる感じかな。うわすべりにすべりつづけて百五十年。

Takeshi KC Takagi 上滑りに滑らなきゃならないのは確かだねぇ。でも、まあ、涙を飲んで上滑る、というほど、悲壮でもないかな。

やや、解説をしたい。

稲本の「うわすべりにすべりつづけて百五十年。」という言葉は、夏目漱石の「現代日本の開化」という講演のなかの言葉を踏まえている。漱石ファンであれば、すぐ気がつくぐらい有名な言葉だと思う。

これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべり)の開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎つつしまなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚(うぬぼれ)てみても上滑(うわすべり)と評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止よしなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑のんで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。

 夏目漱石 現代日本の開化 ――明治四十四年八月和歌山において述――

このコメントに返事に「それは、漱石だね」と直接的に書くのは野暮な感じがすると思った。そこで、講演の内容を踏まえた返事を書くことにした。引用部分の最後を読んでもらうとわかるように、漱石は「涙を呑のんで上滑りに滑って行かなければならない」と言っており、それを踏まえて「でも、まあ、涙を飲んで上滑る、というほど、悲壮でもないかな。」と書いた。

この漱石の講演を知っている人はわかるし、そうでない人からみると何を言っているのかちょっとわからないやりとりになっている。

スノッブの定義

ネット上にある辞書(the Cambridge English Dictionary)を引いてみると、こんな定義が書いてあった。日本語でいうところの「スノッブ」というより、これは「権威主義者」「事大主義者」に近いように思う。

a person who respects and likes only people who are of a high social class, and/or a person who has extremely high standards who is not satisfied by the things that ordinary people like:

dictionary.cambridge.org

次は英語の俗語辞典(Urban Dictionary)で検索すると、日本語でいうスノッブの語感に近い定義がでてきた。要するに「俗物根性」というもの。

Anyone who thinks they are better than someone else based upon superficial factors.

www.urbandictionary.com

次は日本語の辞書(大辞林)で「スノッブ」を調べてみよう。意味的には上の定義とほぼ同じだろう。

教養のある人間のように振る舞おうとする俗物。えせ紳士。

www.weblio.jp

まとめると、スノッブとは、自分の実力ではなく、外部権威に形式的に依存して、自分をえらく見せようとする人のこと、ということなのだろう。

スノッブのつもりはなくてもスノッブに見えてしまう(のか?)

夏目漱石の言葉を借りてやりとりをする、ということはスノビッシュなのだろうか。

私自身、そしておそらくは稲本も、漱石が文豪で権威があるから読んでいるわけではなく、単純に好きだから読んでいる。そして、この「現代日本の開化」も、漱石の観察の鋭さに感心をし、漱石の「現代」だけではなく、私の「現代」にも通じている、と思っている。

夏目漱石」の「権威」に寄りかかった引用だったら、恥ずかしくてとてもできないけれど、その中身に共感しているからこそ引用できる。その気持にはスノビッシュなところはない(と考えたい)。

引用する方は単純に好きで共感しているから引用したとしても、世の中では漱石は「権威」ある「文豪」である。その文章だけ読めば、「権威」を借りて世の中を揶揄しているようで、いかにもスノビッシュに見える。

 自分がスノビッシュに見えてしまうのかどうかを気にしている時点でスノッブということなのかもしれないが、今回のようにスノビッシュなつもりがなくともスノビッシュに見えてしまうようなことが、たまにあると感じている。

まあ、だからなんだ、ということもないのだけれども。

ワインは欠陥商品

ロゼワインプロヴァンスに限る、クラフトビールポートランドに限る

ふだんロゼワインはあまり飲まないけれど、プロヴァンス地方を旅行したとき、乾燥した夏の夕暮れに戸外にテーブルと椅子を出したホテルの近くのレストランで飲んだロゼワインはほんとうにおいしかった。しかし、日本に帰国して同じ銘柄のロゼワインを飲んでもあれほどおいしいとは感じない。やはり、ロゼワインプロヴァンスに限る。

クラフトビールブーム(わが家の)が盛り上がり、一昨年の夏、その勢いでポートランドに旅行してクラフトビールを飲み歩いたことがあった。Hair of the Dog Brewingというクラフトビール醸造所が直営しているビアパブがあり、そこで飲んだビールがとてもおいしかった。つまみのセンスもすばらしかった。日本でもいろいろなクラフトビールを出すお店もあるけれど、結局、このお店ほど感動するようなクラフトビールに出会ったことはない。やはり、クラフトビールプロヴァンスに限る。 yagian.hatenablog.com

マニュアル車の運転とワインのうんちく

私は自動車を持っていないので、運転するのは年に数回レンタカーを借りるときである。日本やアメリカのレンタカーはいつもオートマだが、ヨーロッパではマニュアル車のことがある。排気量が小さく馬力が足りないマニュアル車を回転数を上げて運転するのは楽しい。

運転の楽しさはわかるけれど、考えてみればマニュアル車というものは、回転数の変化に応じてトルクが大きく変動するという内燃機関の欠点を、人間系で補うものなんだと思う。そういう意味では、マニュアル車はある種の欠陥商品だし、機械として考えればオートマ車や電気自動車に移行するのは自然なんだろう(まあ、公共交通機関が充実した都市で自動車を所有している人のかなりの部分はおもちゃとして所有しているのだろうけれど)。

ワインはどうしても当たりハズレがある。原材料も製造過程も輸送保存でも品質に影響を与える要因が多すぎて、品質が安定しない。だから、ハズレのワインがどうしてもある。消費者から見れば、開けて飲むまでは味がわからないという意味で、ワインは欠陥商品だと思う。

ワインについてのうんちくというのは、結局、ワインの欠陥商品性を逆手にとったマーケティングなんだと思う。飲むまで味がわからない品質の不安定さを、むしろ活用してしまうという意味で、マーケティングの観点からみればすばらしい成功だけど、いち消費者としては、それに付き合うのもなぁと思うようになってきた。

地産地消とワインとビール

お酒の味わいは複合的なものだ。お酒そのものの品質もあるし、気候の要素も大きいし、一緒に食べる食事との組み合わせも重要である。ワインやビールのような「なまもの」性が高いお酒は、ヨーロッパからはるばる運んでくるのも大変だろう。

結局、その土地でみながおいしいと思って飲んでいるお酒を飲む、プロヴァンスロゼワインポートランドクラフトビールのような、そういう地産地消的なお酒の飲み方がいちばんおいしいのではないかと思うようになってきた。

蒸留酒ブーム(わが家の)の到来

最近、わが家では蒸留酒ブームが到来しつつある。

ワインやビールとちがって、蒸留酒は品質が安定していて、当たりハズレがほとんどない。

 夏の飲み物ととして作り始めたモヒートだが、結局、通年飲んでいる。分量さえきちんと計れば、毎回ほぼ同じ味が再現できるのがよい。今では自分好みの味になるレシピもわかっている。

yagian.hatenablog.com

居酒屋で、グレープフルーツを絞る生グレープフルーツサワーがあるとたいてい注文している。これも家で簡単に作れるはずだから、こんど挑戦してみようと思っている。

江戸三十三観音巡礼ジョギング:文京区編

ハーフマラソンにやや懲りたので

1/14(日)のハイテクハーフマラソンに参加して、ぶじ完走はしたものの、そのあと足の痛みが長引き、足首にも違和感があった。もともと健康のためにはじめたはずのジョギングで身体を痛めるのは本末転倒と思い、しばらくジョギングを休んで身体を休めていた。

ハーフマラソンに参加する前は、これはフルマラソンへのステップぐらいに考えていたけれど、正直、ハーフマラソンにやや懲りた格好である。もし、またハーフマラソンやフルマラソンに参加するのであれば、準備もしっかりとして、ペースもがまんしてゆっくりと、身体を傷めないような走り方をしようと思っている。

yagian.hatenablog.com

江戸三十三観音巡礼ジョギング:文京区編

先週の土曜日、久しぶりにジョギングをした。

ちょっと気分を変えて、いつものコースではなく、今年に入って始めた江戸三十三観音巡礼をジョギングですることにした。わが家の最寄りの護国寺をスタートして、観音様が集まっている文京区を目指すことにした。調子が悪くなればいつでもバスで帰ってくることができる。

護国寺にお参りをした後、不忍通りを上富士前まで走り、右折して本郷通りに入る。地下鉄南北線本駒込駅の定泉寺に参拝。本郷通りから団子坂(江戸川乱歩「D坂の殺人事件」の団子坂、夏目漱石三四郎」の菊人形の舞台でもある)に向かう通りへ左に曲がり清林寺に参拝。

D坂の殺人事件 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)
 
三四郎 (岩波文庫)

三四郎 (岩波文庫)

 

また本郷通りまでに戻り、左に曲がってしばらく行くと、桜が植えられている浄心寺に着く。本郷通りを戻り、向丘高校の脇の細い路地を左に曲がると大円寺がある。このお寺の墓地には斎藤緑雨の墓がある。日本近代文学のあけぼのの時代における彼のひねくれたユーモアに対して、自分のひねくれた感覚との共通点を感じ、ねじれた親近感を感じている。

白山通りに向けて坂を下ると円城寺がある。ここはには八百屋お七の墓がある。白山通りを後楽園の方向に進み、こんにゃく閻魔様のちょっと手前の角を右に曲がる。そのまま坂を上がると伝通院に着く。今日の巡礼はここで終わり。

そのまま春日通りを茗荷谷まで走り、スーパーで買物。ジョギングはここまでで、8.3kmだった。

タイムより目的のあるジョギングは楽しいかも

休みながらのんびり走ったので、久しぶりのジョギングでもあまり消耗しなかった。

レースでタイムを目標にして走るより、行き先に目的を持って走る方が楽しいかもしれないと思った。

江戸三十三観音で、文京区ほど巡礼先がかたまっているところはないけれど、また、巡礼ジョギングをしてみよう。

大切なのは失敗を恐れないこと:スーパーボウルLII(52)の感想

 スーパーボウル・ロス

日本時間で今週月曜日にスーパーボウルLII(52)があった。フィラデルフィア・イーグルスニューイングランド・ペイトリオッツに41対33で勝った。ペイトリオッツのQBトム・ブレイディは、最後のプレーでエンドゾーンにボールを投げ込み、最後の瞬間までどちらが勝つかわからない接戦のすばらしい試合だった。

つれあいがフィラデルフィアに縁があり、これまでもイーグルスの動向は見守っていた。しかし、よもやスーパーボウルに勝てるとはまったく思っていなかった。レギュラーシーズンを第一シードで勝ち抜き、プレーオフを勝ち進むにつれて徐々にもしかしたらと思うようになり、それが実現してしまった。

いまは、よろこび、というより、むしろ虚脱感がある。

イーグルスとニック・フォールズの道のり

最近、フィラデルフィアプロスポーツチームは、どれもぱっとした成績をあげられずにいる。イーグルスも2000年代初頭に強かった時期があったが、最近はプレーオフに進出することも難しい状態が続いていた。

前シーズン、新しいヘッドコーチのダグ・ペダーソンが就任し、同時に新人として獲得したQBカーソン・ウェンツを中心としたチームづくりに取り組み、今シーズンは開幕からウェンツがMVPレベルの活躍を見せ、地区首位を独走していた。

しかし、レギュラーシーズン16週のうち14週目の試合でウェンツが今シーズンの出場が不可能な重症を負ってしまう。プレーオフ出場はほぼ確実になっていたが、控えのQBニック・フォールズが出場することになった。

フォールズは、スターターのQBとして活躍したシーズンもあるが、ここ数年は控えのQBとしてチームを渡り歩いていた。結局、第一シードとしてプレーオフに出場することができたが、批評家からイーグルスは「負け犬(underdog)」扱いされていた。

たしかに、レギュラーシーズンの最終盤に出場することになったフォールズは落ち着きがなく、しきりとサイドラインの方へ視線を泳がせていた。ランプレーを中心に堅実な作戦を採用して、ロースコアの堅いゲーム運びをしていた。

しかし、徐々にフォールズも落ち着きを見せるようになり、プレーのバリエーションも増えていった。ウェンツの力も大きかったのだろうけれど、イーグルスは強力なオフェンスとディフェンスのラインを持っていて、QBが変わってガタガタと崩れるようなチームではなかった。

そして、チャンピオンシップゲームでは、フォールズはすばらしいプレーを見せてミネソタ・バイキングスに圧勝した。そして、スーパーボウルに進出し、ファンですら信じられないすばらしい戦いぶりでペイトリオッツに勝ち、フォールズはMVPを獲得した。

大切なのは失敗することを恐れないこと

挫折を経て、決して若いとは言えない年齢になっても成長する人を見ると心が熱くなってしまう。

フォールズのインタビューの一節を翻訳したいと思う。

「大切なのは失敗を恐れないことだと思う。現代社会、インスタグラムやツィッターでは、ハイライトが、いいことがあふれている。そんなものをい見たときが悪い日だったら、自分の人生はあんなにすばらしくない、自分は失敗している、と思うだろう。失敗は人生の一部だ。人格を作り上げ、成長するためには必須のものだ。失敗がなかったら、きみはきみじゃない。何千回も失敗し、誤りを犯さなかったら、私はここにはいない。ぼくらはみな弱さを抱えている人間なんだ。その弱さを分かち合い、隠さないでいることができる。

人が自分が弱いんだ、ということを話し、分かち合おうとしていると気がついたとき、ぼくは耳をすます。関わることができるように。ぼくは完璧じゃないし、スーパーマンでもない。NFLにいるかもしれないし、スーパーボウルに勝ったかもしれないけれど、みな、日常はあがいている。そのことこそが、自分の信仰、家族がよって立つものなんだ。自分の人生の苦闘を見つめるときこそ、人格を成長させるチャンスなんだと気がつくはずだ、ぼくはそう思ってる。」

“I think the big thing is don’t be afraid to fail,” Foles said. “In our society today, with Instagram and Twitter, it’s a highlight. It’s all the good things. When you look at it, you have a bad day, you think your life isn’t as good, you’re failing. Failure is a part of life. It’s a part of building character and growing. Without failure, who would you be? I wouldn’t be up here if I hadn’t fallen thousands of times, made mistakes. We all are human. We all have weaknesses. Just being able to share that and be transparent.

“I know when people speak and share they’re weaknesses, I listen. Because I can (relate). I’m not perfect. I’m not Superman. We might be in the NFL and we might have just won the Super Bowl, but we all have daily struggles. That’s where my faith comes in. That’s where my family comes in. I think when you look at a struggle in your life, just know that it’s an opportunity for your character to grow.”

usat.ly

彼のファンになってしまった。