まなざし(承前)

今月初めの日記で、「まなざし」(id:yagian:20051001#p2)という題名で、「雪国」(新潮文庫 isbn:4101001014)を例にとって、川端康成の小説の視覚的要素について書いた。今日のこの日記は、その続きである。まず、前半部分について読んでいただきたいと思う。
さて、前半部分の末尾で、川端康成の小説の描写は、川端の個人的な視覚に基づいて書かれているため、文化的な要素が少なく、それゆえ、普遍性が高いのではないか、という仮説を書いた。
この仮説を検証するために、原文、サイデンスティッカーによる「雪国」の英訳(Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker "Snow Country" Carles E. Tuttle Company)、さらに、私が英訳から日本語へ再訳した文章を並べてみた。サイデンスティッカー訳とそれからの再訳に、川端康成が描写したかった美しさのエッセンスが残っていれば、彼の表現は翻訳を超えた普遍性を持っているといえるだろう。

<原文>
……ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。…向こう側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった。
娘の片眼だけは反って異様に美しかったものの、島村は窓に寄せると、夕景色見たさという風な旅愁顔を俄づくりして、掌でガラスをこすった。

<サイデンスティッカー訳>
…… then quickly drew a line across the misted over window. A woman's eyes floated up before him. …… when he came to himself he saw that it was only the reflection in the window of the girl opposite. Outside it was growing dark, and the lights had been turned on in train, transforming the window into mirror. The mirror had been clouded over with steam until he drew that line across it.
The eye by itself was strangely beautiful, but, feigning a traveler’s weariness and putting his face to the window as if to look at the scenery outside, he cleared the steam from the rest of the glass.

<再訳>
……曇った窓にすばやく線をひくと、彼の目の前に女の眼が浮かび上がった。……我にかえると、向かい側に座る少女が窓に写っただけだったということに気がついた。外は暗くなり、列車の中には明かりがついており、窓が鏡になっていた。窓に線を引くまでは、鏡は蒸気で曇っていたのだった。
その眼は、不思議なほど美しかったが、彼は、退屈した旅行者を装い、外の景色を見ているかのように顔を窓に向けながら、窓から蒸気を拭った。

……

<原文>
 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。

<サイデンスティッカー訳>
In the depths of the mirror the evening landscape moved by, the mirror and the reflected figures like motion pictures superimposed one on the other. The figures and the background were unrelated, and yet the figures, transparent and intangible, and the background, dim in the gathering darkness, melted together into a sort of symbolic world not of this world. Particularly when a light out in the mountains shone in the center of the girl’s face Shimamura felt his chest rise at the inexpressible beauty of it.

<再訳>
 鏡の奥には夕景色が流れ、鏡と鏡像は映画のように重なりあっていた。鏡像と背景は無関係だったが、半透明で輪郭があいまいな鏡像と、濃くなっていく闇のなかでくすんでいる背景は、この世のものならぬ象徴的な世界へ、お互いに融けあっていった。特に、山のなかの明かりが少女の顔の中心を照らしたとき、島村は、その表現できない美しさに胸がふるえるのだった。

……

<原文>
 そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火は映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫だった。

<サイデンスティッカー訳>
It was then that a light shone in the face. The reflection in the mirror was not strong enough to bolt out the light outside, nor was the light strong enough to dim the reflection. The light moved across the face, though not to light it up. It was a distant, cold light. As it sent its small ray through the pupil of the girl’s eye, as the eye and the light were superimposed one on the other, the eye became a weirdly beautiful bit of phosphorescence on the sea of evening mountains.

<再訳>
 そのとき、顔に明かりが輝いた。鏡の反射は外の明かりを打ち消すほど強くなく、明かりは反射をかすませるほど強くなかった。明かりは、顔を輝かせることなく、通り抜けていった。それは、遠く、冷たい明かりだった。明かりからの光線が少女の眼の瞳孔にとどき、眼と明かりが重なり合った時、その眼は、夕暮れの山並みの海に漂う奇妙に美しい夜光虫になった。

再訳では、なるべく原文を見ずに、サイデンスティッカー訳を直訳するように心がけた。再訳の文章の質が低いのは、私の文章力のためでやむを得ない。
ここでは、川端康成は、窓の外のともしびと窓に映る娘の顔の重なり合いの美しさを表現するために、詳細に描写を重ねている。原文、サイデンスティッカー訳、再訳は、それぞれ文章表現そのものはちがっているけれど、描写の内容、特に、美しさのエッセンスは、おおむね同じ形で残されているように思うが、どうだろうか。
最後に、川端康成の視覚のあり方を良く示す印象的なエピソードを紹介したいと思う。福田和也「日本人の目玉」(ちくま学芸文庫 isbn:4480089217)からの孫引きで、初出は「新潮」の昭和47年6月臨時増刊号に掲載された澤野久雄「川端康成と女性」という文章という。

 京の祇園で、舞妓を十何人か集めて、お座敷の一方に一列にならばせる。川端さんは、彼女等の一間半ほど手前に正坐して、あの目で舞妓の顔を、姿を、一人ずつ順々にながめてゆく。視線が、彼女等の一人残らず充分見きわめると、またもとに戻って、端から順々に目を凝らす。その間、何も言わない。娘たちもだんだん、不気味になって来る。しんとしてしまう。やがて、二時間か三時間かの、重苦しい沈黙が積み重なる。と、川端さんは急に微笑をうかべて、
「ありがとう。御苦労様。」

川端康成の写真を見ると、あのぎょろりとした「目」が印象的だ。あの「目」で、舞妓をまったくモノ扱いして観察する。舞妓たちも、さぞかし気味がわるかっただろう。気味が悪かった原因は、川端康成が、舞妓と人間関係を結ぼうとはせず、あくまでも視覚的な観察の対象としているからだ。言ってみれば、相手をモノ扱いにしているのである。
相手と人間的な関係を結ばずに一方的に眺めていたいという欲望は、それほどめずらしいものではないかもしれない。「覗き」というのは、自分の存在を隠すことで、「覗く」対象との人間関係を避け、相手をモノ扱いすることができる。テレビ、映画といった映像も、自分を安全地帯に置くことができるから、映像の中の人とそれを見る人の関係は「覗き」に近いかもしれない。
川端康成のエピソードが特異なのは、自分が相手をモノ扱いしていることをまったく隠そうとしていないことだ。相手に、自分が相手のことをモノ扱いしているということを知られるのをまったく気にしていない。それよりも、より近くでじっくりと観察することの方を優先している。あからさまに相手をモノ扱いしているという意味では、強姦しているようなものだ。モノ扱いはきわめて徹底しているから、それより非人間的かもしれない。
舞妓との人間的な関係を排除し、外見だけを執拗に観察する川端康成のまなざしは、自然科学的なまなざしにきわめて近いように思う。
もし、川端康成と舞妓との人間関係が生じれば、舞妓の表情や所作、川端康成への対応も変わり、その観察結果には再現性がなくなり、そのお座敷のとき一回きりのものとなる。次のお座敷の時は、違った姿を見せることになるだろう。しかし、川端康成のように、人間関係を排除して純粋に観察するためだけに観察すれば、舞妓は毎回同じ姿を見せるだろう。川端康成以外の人が同じことをしても、同じような舞妓の姿を観察することができる。また、舞妓それぞれに人間性、個性を無視しているから、どの舞妓を見ても、同じような姿を見ることができるのかもしれない。「眠れる美女」(新潮文庫)では、意識なく眠っている少女の姿を詳細に描写していた。意識なく眠っている少女は、観察する老人との人間関係が生じないため、毎回同じ姿を見せる。川端康成は、意識のある舞妓を対象に、眠れる美女を眺める老人と同じことをしているのである。
このような川端康成の舞妓へのまなざしは、自然科学のまなざしにも似ている。自然科学では、観察をめぐって、観察者と観察対象の関係を極力排除し、観察結果の再現性を高めようとする。同じ実験をすれば、誰がやっても同じ結果が得られることが重要なのだ。そのことによって、文化を超えた普遍性を獲得した。
川端康成のまなざしは、非人間的で異常である。しかし、そのようなまなざしを持つことで、彼の観察、そして、作品が普遍性を持つに至ったのではないだろうか。