「ボーイズ」

〜このエントリーには、映画「鉄コン筋クリート」のストーリーにかかわる記述があります。〜
仲間内だけで、家族の間だけで通用し、外の人たちには意味を説明するのが難しい言葉がある。
夫婦の間だけ通じるニュアンスで、「ボーイズ」という言葉を、よくつかっている。この「ボーイズ」ということについて、ウェブログに書こうと考えてきたのだけれども、この言葉のニュアンスをうまく説明することができなくて断念してきた。今日は、時間もあるので、挑戦してみようと思う。
「ボーイズ」という言葉は、成熟せず、もろさを抱えた男子たちとその性格、行動を指している。「ボーイズ」は、自己愛が強く、感情を強く共有することで集団を作り、自分の母親以外の成熟した女性を敵視し、場合によっては、はた迷惑な存在となる。「ボーイズ」の集団は、ホモソーシャルという概念に近い。ホモソーシャルという言葉は、「ボーイズ」間の連帯感や集団という側面に重点が置かれ、「ボーイズ」という言葉はホモソーシャルな関係を作る男子たち個々の性格、行動という側面に重点がある。
古今の小説、映画から日ごろの人間観察まで、世の中のあらゆる所で「ボーイズ」が発見できる。つれあいとは、ここでこんな「ボーイズ」を発見した、とか、これって「ボーイズ」なのでは、という話をよくしている。つれあいは外から見た「ボーイズ」像を語り、私は自分のなかにも「ボーイズ」性があるから、内から見た「ボーイズ」を語る。どうしても、つれあいが「ボーイズ」を攻める側になり、私が「ボーイズ」を弁護する側になりがちである。
年末、つれあいと「鉄コン筋クリート」を見に行った。私は、宝町を背景にしてシロとクロが飛んでいる動画を見ることができただけで満足だったが(シロの声優を担当した蒼井優はよかった)、つれあいと一緒に見たことを少々後悔していた。それは、「鉄コン筋クリート」が、「ボーイズ」の一色の「ボーイズ」のための映画だったからだ。
登場人物のほぼすべてが男ばかりの完璧なホモソーシャルな世界である。わずかに姿を見せる女性は、木村の恋人、チョコラの老母、宝町の場末のストリップ小屋のストリッパーである。映画の終盤、木村は父になることを引き受け、宝町から引っ越そうとする。これは、「ボーイズ」から大人となり、ホモソーシャルな世界から卒業することを意味しているのだろう。しかし、「鉄コン筋クリート」のストーリーのなかでは、「ボーイズ」は「ボーイズ」から卒業することが許されず、木村は撃ち殺されてしまう。木村と違ってチョコラが無事に宝町から出ることができたのは、女とともに「ボーイズ」を卒業するのではなく、「ボーイズ」のまま母の元に帰るからだろう。ストリッパーは豊満な肉体を持つ、女性より母性を感じさせる存在である。
そんな「ボーイズ」映画の「鉄コン筋クリート」は、つれあいと一緒に映画館で見るのではなく、深夜、つれあいが寝静まったころを見計らって、ヘッドフォンをつけてDVDで見るのがふさわしかったのではないかと思った。しかし、映画を見終わった後、つれあいは、あらゆる「ボーイズ」の要素がでてきて、それはそれでおもしろかったと言っていた。ふたりで、「鉄コン筋クリート」にでてくる「ボーイズ」らしい要素を数え上げて見た。友情、変身、暴力、破壊、格闘・カンフー、善悪の対決、孤児、放浪、野宿、任侠、師弟。もし、欠けているとするなら、シロとクロの母親が暗示すらされなかったことぐらいだろうか。
ここまで、「ボーイズ」について客観的に語っているけれど、私自身は「ボーイズ」を嫌っているわけではない。しかし、自分の「ボーイズ」性や「ボーイズ」への嗜好について、やや後ろめたく、恥ずかしさを感じているので、あからさまに肯定することがはばかられる。「鉄コン筋クリート」や松本大洋の世界は大好きなのだが、それをストレートに表明するのがためらわれる。それだけ、自分の気持ちのやわらかいところと「ボーイズ」性が関わっているとうことなのだろうけれど。
つれあいと「鉄コン筋クリート」を見に行くことにしたのは、映画のオフィシャルサイト(http://www.tekkon.net/index.html)で、監督をしたマイケル・アリアスのインタビューを見たからだった。妙にこなれた日本語を話す西洋人が、松本大洋のマンガの魅力について滔々と語っているのである。「ボーイズ」は、実にさまざまなところに発見することができるけれど、西洋人が日本のマンガのなかの「ボーイズ」性に魅了されるほど、「ボーイズ」性が普遍的なものなのかと妙に感心したのである。
つれあいとは、夏目漱石の小説の「ボーイズ」性について話すことがある。彼女は、若いころ漱石の小説を読み、女性がないがしろにされているところに反発したという。いまでは、漱石の小説を、ホモソーシャルという観点から読み解くということは、ありふれたものになっているけれど、つれあいは、そのことをストレートに感じていたということだ。確かに、「三四郎」(新潮文庫 ISBN:4101010048)以降、漱石の小説は、成熟できない「ボーイズ」同士の友情と、女性への恐怖と嫌悪とないまぜになった憧憬がテーマとなっている。
橋本治が「100%ホモ小説」と呼ぶ「こころ」(新潮文庫 ISBN:4101010137)が、漱石の作品のなかでは、いちばんわかりやすい「ボーイズ」小説かもしれない。Kと先生、先生と私の「ボーイズ」同士の関係が話の中心で、奥さんの存在感は小さい。Kの保護者を任じていた先生は、実は、Kが自分自身を凌駕する存在だと気づき、傷つく。Kと先生の関係は、「鉄コン筋クリート」でいえば、シロとクロの関係に比べられるだろう。そして、先生と私の関係は、鈴木と木村である。「こころ」のなかでは先生は自殺し、遺書を私に託す。「鉄コン筋クリート」では、師である鈴木は、覚悟の上で木村に撃たれて死ぬ。形の上では殺人だが、中身はほぼ自殺に近い。そして、殺される直前に、鈴木は木村に遺言を残す。
話が広がってしまった。しかし、「ボーイズ」についての話はもっと広げることも、深めることもできる。これからも、「ボーイズ」というテーマで、書いてみようと思う。