正統と味

今日はなかなか充実した休日を過ごすことができた。
昼過ぎにバスに乗って団子坂下まで行き、やなか珈琲店でミルクコーヒーとホット・サンドウィッチ食べた。その後、団子坂を登り、谷中を散策し、芸大を通りぬけ、東京国立博物館王羲之展に行ってきた。その後、国立科学博物館のチョコレート展に行き、ベンチでしばらく休憩した後、上野の山を下り、伊豆栄で生ビールを飲みながらうな重を食べた。帰りに酒悦で福神漬を、〓月堂でゴーフルを買って、バスに乗って帰ってきた。
このなかでは、王羲之展が想像以上に充実していておもしろかった。
王羲之は4世紀に生きた人だが、21世紀の日本人である私が彼の書を楷書であればさして苦もなく読めるということは驚異的だと思う。彼の書体はそれだけ完成度が高い。むしろ、20世紀に入って独自の簡体字を使うようになった日本と大陸中国のほうが奇妙な選択だと思う。4世紀以来20世紀半ばまで通用してきた字体に改変を加える重大性を十分理解しているのだろうか。過去の膨大な蓄積に直接アクセスすることが難しくなるということを意味している訳である。
王羲之展でいちばん興味深かったのは、彼の代表作である「蘭亭序」のさまざまなバリエーションである。王羲之の真筆は現在まで伝わっていないという。唐の太宗が王羲之の作品を集め、精密な模筆を作成した。この模筆は、臨書ではなく、王羲之の真筆に紙を重ね、輪郭をトレースし限りなく同じ形を再現することを目指したものだという。そして、その模筆をもとに木版を作り、拓本が作られた。さらに拓本を臨書し、その臨書をもとに拓本が作られる、という経緯を重ね、王羲之の「蘭亭序」から多くの模筆、拓本、臨書が作られた。
この展覧会ではその「蘭亭序」が大量に集められている。私は書道はまったくの素人だが、高校の授業で「蘭亭序」の臨書をしたことがあり、懐かしかった。素人目にも多くのバリエーションの出来不出来、相違がわかり、いろいろ比べながら見るのも楽しかった。
この展覧会の最後に、王羲之の影響を脱した清の書家の作品が展示されていた。唐時代以降、王羲之の模筆、拓本、臨書が書道の歴史を拘束していたが、清時代の書家は王羲之以前の青銅器などの書を模すことで王羲之の呪縛から抜け出し新しい書体を作り上げた。ルネサンス期にギリシアの彫刻を模すことで中世ヨーロッパの影響から抜けだしたこととよく似ている。
王羲之の書体の美しさは素人目にもわかりやすい。きわめて整っていて、精密であり、楷書については非常に読みやすい。文字の機能と美しさをわかりやすく両立している。こういう本格的な文化のあり様は実に中国的で、日本にはあまりないと思った。
日本では、「正統」としての中国の影響が圧倒的で、どうしてもそのアンチテーゼとしての趣味を提示することになりがちである。陶磁器にしても、中国では均整が取れていていかにも美しい色の作品が作られるが、日本では歪みや偶然を「味」として好むが、書においても同様である。
もちろん、「正統」な趣味だけでは世界は狭くなるので「味」の意味も大きい。しかし、「味」はアンチテーゼであって、「正統」があってこその「味」という側面がある。その意味で、王羲之を模した書も、それに反対した書も、結局は王羲之の書に支えられているのだと思った。