マキアヴェッリ「君主論」

マキアヴェッリの近代性

いま、原著で政治思想史をたどろうとしている。あまりに手を広げすぎても読み切れないから、いちおう西洋近代の政治思想史に限定している。まずは近代の政治思想史の起点としてホッブスリヴァイアサン」から読み始めた。

リヴァイアサン」を読み、この本のなかでルソーにおいて民主政の基礎に位置づけられる「社会契約」という概念が打ち出されているが、ホッブス自身は主権国家という存在(=リヴァイアサン)を重視しているが、君主政か民主政かにはあまり興味を持っていない。どちらかと言えば政体が安定する、という観点から君主政の方がよいと語っており、意外だった。

西洋近代の政治思想史は、基本的には民主政を中心に展開する。そこで、ちょっと回り道をして、ホッブスから少々時代をさかのぼり、マキアヴェッリ君主論」で君主政に関する議論を読んでおこうと思った。

君主論」というと、なにやら権謀術数について語った本というステレオタイプがあったけれど、実際に読んでみると、岩波文庫で本文は198ページで、簡潔かつロジカルで、思いのほか読みやすい本である。倫理と事実を峻別すべきと主張しているところがあり、近代性を感じた。

いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。(pp115-116)

この本の解説を読んではじめて知ったが、マキアヴェッリには「ローマ史論」と呼ばれる共和政を論じた本があるという。彼自身、著作家になる前は、共和政のフィレンツェで書記官を務めており(フィレンツェの共和政が崩壊するとともに失脚する)、別に君主政を礼賛していた訳ではなかったという。

 マキアヴェッリの思想の全体を理解するためには、「君主論」を読むだけでは不十分のようだ。しかし、「ローマ史論」は大部なため(それゆえ「君主論」の方が主著とされているのだろう)、この西洋近代政治思想史の旅がひととおり終わったところで、また立ち返って読んでみようと思う。 

君主論 (岩波文庫)

君主論 (岩波文庫)

 

 

ディスコルシ ローマ史論 (ちくま学芸文庫)

ディスコルシ ローマ史論 (ちくま学芸文庫)

 

 君主政か民主政か

今回、西洋近代の政治思想史を読んでみようと思い立った理由のひとつに、独裁者による秩序と民主主義による混沌のいずれが望ましいのか、という難問の存在がある。

イラクやシリアでは、残虐な独裁者によっていちおうの秩序が維持されていた。そして、外国の勢力の介入などもあり、それが崩壊し、大きな悲劇をもたらす混沌状態となる。安定した民主政が成立してその混沌状態が克服されればよいが、現実的にはその見通しは暗い。そのとき、独裁者による秩序は認めうるのだろうか。

ホッブスに尋ねたとしたら、その答えは簡単だろう、独裁者の秩序の方が好ましいと。彼は、自然状態にあると人間は「万人に対する万人の闘争」状態になってしまうため、自らの安全を確保するためには、社会契約によって自然権の一部を主権国家に委ね、その主権国家が安全を保証する、という形で国家の起源を想定している。主権国家は、安全を保証するためのいわば「必要悪」なのであり、逆に言えば安全を保証できるかがその存在意義である。だから、君主政や民主政の比較は、どちらのほうがより安全を保証できるのか、という実利的な観点からなされることになる。

民主政、君主政の双方について論じているマキアヴェッリについて、彼は民主政を支持していたのか、君主政を支持していたのか、という議論があるようだ。私から見ると、彼もホッブスと同様に、外敵からの侵略や内部からの反乱によって秩序が崩壊することが最大の害悪であり、安定した秩序を提供できる限りにおいては君主政も民主政も選択肢になりうると考えていたのではないかと想像している。

君主論」のなかで次のように述べられている。

君主たる者は、おのれの臣民の結束と忠誠心を保たせるためならば、冷酷という悪評など意に介してはならない。なぜならば、殺戮と略奪の温床となる無秩序を、過度の慈悲ゆえに、むざむざと放置する者たちよりも、一握りの見せしめの処罰を下すだけで、彼のほうがはるかに慈悲深い存在になるのだから。なぜならば、無秩序は往々にして住民全体を損なうが、君主によって実施される処断は一部の個人を害するのが常であるから。(pp125-126)

この当時のイタリアは、共和国や諸侯、教皇などが群雄割拠し、フランスやスペインの軍隊の侵入を受けていた。イタリア内の諸勢力の主な軍隊は傭兵に依存しており、これが弱点のひとつのなっていた。「君主論」のなかで、マキアヴェッリは君主は自らの軍を持つべきだと主張している。マキアヴェッリ自身は明言していないが、この方向で考えを進めれば、国民軍や国民国家へと議論はつながっていくのではないかと思う。

君主論 (岩波文庫)

君主論 (岩波文庫)

 

 「君主論」要約

第1章 君主政体にはどれほどの種類があるか、またどのようにして獲得されるか
  • 政体の形態には共和政と君主制がある。君主制には世襲と新興のものがあり、新興のものには全面的に新しい場合と部分的に他の政体に付加される場合がある。
  • 支配権の獲得方法には、他者の軍備によるものと自己の軍備によるものがあり、運命によるものと力量によるものがある。
第2章 世襲の君主政体について
  •  世襲の政体は新興より保持しやすい。伝来の統治形態をなおざりにせず、予測できない変事に対しては時間を稼げばよい。
  • 世襲の君主は新しく君主になった者に比べ人を害する必要も理由がないため人から愛される。
第3章 複合の君主政体について
  • 政変に際して、人民は事態がよくなると期待し武器を取るが、実際には新しく君主になった者の軍事力などにより必然的に住民に被害を与える。このため、新しい君主は住民を敵に回し、彼を支持した支援勢力も満足させられない。
  • 古い政体に新しい政体が付加される場合、両者が同じ地域、言語に属し、住民が共和政に慣れていない場合は、それまで支配してきた君主の血筋を抹消するだけで保持できるため、比較的容易である。
  • 両者の地域、言語が異なる場合、支配地を獲得した人物がみずからそこに赴いて支配するか、植民兵を送り込むことが必要である。また、在地の弱小勢力を手なづけながらも彼らの権力を増大させず、強大な勢力を弱体化させるべきである。
  • 戦争を避けるために混乱を放置してはならない。なぜならばそれは避けられないばかりか、避けようとすればあなたのふりを引き伸ばすだけであるから。
第4章 アレクサンドロスに征服されたダレイオス王国で、アレクサンドロスの死後にも、その後継者たちに対して反乱が起きなかったのは、なぜか
  •  君主政には「君主と他はすべて下僕である者たちによって治められる方法」(トルコ型)と「君主と封建諸侯たちによって治められる方法」(フランス型)がある。
  • トルコ型は内紛が起こりにくく、征服することが難しいが、君主を倒すことができれば征服後の統治は容易である。
  • フランス型は、封建諸侯の裏切りを利用することで征服することは比較的容易であるが、封建諸侯を統治することが難しい。
第5章 征服される以前に、固有の法によって暮らしていた都市や君主政体を、どのようにして統治すべきか
  •  征服した国を支配する方法は、(1)彼らの固有の法、政体を破壊する、(2)支配者が自ら移り住む、(3)固有の法を認めながら支配者と密接な関係を保つ寡頭政権を擁立し税を取り立てる、の三つの方法がある。
  • かつて君主政体だった場合には、住民は服従に馴らされてきたため、君主の血筋を絶やすことで比較的容易に支配を確実にすることができる。
  • かつて共和政体だった場合には、彼らの憎悪の念、復讐心、古くから続く自由の記憶はがなくならないため、もっとも安全な方法は、彼らの固有の法、政体を破壊することである。
第6章 自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について
  • 私人から君主に成り上がるときには、力量か運命を前提とするが、運命に依存しなかった者の方がより長く政権を維持できる。自己の力量によって君主になった者たちについていえば、運命から好機のみを授けられている。
  • 君主となり新しい制度を導入するとき、新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを敵に回し、新制度によって恩恵に浴するはずのすべての人びとは生ぬるい味方に過ぎない。このため、新制度の導入に実力を行使できることが必要である(「軍備のある預言者はみな勝利したが、軍備なき預言者は滅びてきた」)。
第7章 他者の軍備と運命で獲得した新しい君主政体について
  • 運命のおかげで私人から君主になった者たち、金銭の力や他者の好意によって政体を譲られた者たちは、ほとんど労せず君主の座に就いたものの、これを保持するには多大の苦労が伴う。
  • このような者たちは自分に支配権を譲ってくれた人物の意志と運命にまったく依存しているが、それらは二つとも移り気で不安定なものであるから、彼らは手に入れた地位を保つすべを知らないし、保てる力もない。
  • それまで常に私人の身として暮らしてきた以上、命令を下すすべを知らず、また、自分の味方になり得る忠実な武力を持っていないためである。
第8章 極悪非道によって君主の座に達した者たちについて
  • 私人から君主になるには、その他に極悪非道なみちを通って君主の座にのぼった者の場合と、自分の同朋である市民の好意によって祖国の君主になった者の場合がある。
  • ある政体を奪い取るにあたって、必要な攻撃、加害行為のすべてを一挙に実行に移して、その後は繰り返さないことによって人びとを安心させ、かつ恩恵を施しつつ彼らを手懐けるようでなければならない。
  • これと逆の行動を取るものは、いつでも手に剣を握っていなければならないし、絶え間のない迫害のために、臣民の側は決して彼に気を許さないので、彼の方も臣民の上に安心して立っていることができない。
 第9章 市民による君主政体について
  • 私人が、民衆ないし有力者の好意によって君主の座にのぼった場合、いずれにせよ民衆を味方につけておくことが必要である。さもなければ、動乱の時にあって手当が施せない。
  • このような君主が自ら命令を下す制度から、執政官を介して統治するようになると、執政官は市民に左右され、場合によっては君主に反逆することもあり、より危険をはらんでしまう。
  • 市民が君主とその政権を必要とするための方法を考えれば、市民は忠実であり続けるだろう。
 第10章 どのようにしてあらゆる君主政体の戦力を推し量るべきか
  • 侵略する相手に独力で対抗できる君主でなければ、城壁に囲まれた都市の防衛を強化し、物資を備蓄すべきである。
  • 臣民に対する措置を講じてけば、侵略されることは少ない。堅固な守りの都市を擁し、民衆から憎まれていない人物を攻略することは、容易ではないと見えるから。
第11章 聖職者による君主政体について
  • 聖職者による君主政体は、宗教に根ざした古くからの制度によって支えられているため、保持するには力量も運命も不要である。こういった君主のみが、政権を持ちながら防衛せず、臣民を持ちながら統治しない。
第12章  軍隊にはどれほどの種類があるか、また傭兵隊について
  • 君主にとって必要なものは良き土台であり、良き土台とは良き法律と良き軍備である。
  • 君主がおのれの政体を防衛するときの軍備は、自己の兵か、傭兵軍か、援軍か、混成軍である。
  • 傭兵軍は軍備は不統一であり、規律がなく、忠誠心を欠くため、そのその上に築かれた政体は堅固でも安全でもない。
第13章 援軍、混成軍、および自軍について
  • 援軍は、それ自体としては役に立ちすぐれたものであるが、呼び入れた者には常に害をもたらす。彼らが敗北すれば自分も滅亡し、勝利すれば彼らの虜になってしまう。
  • 臣民、市民、手勢からなる自己の軍備を持たなければ、いかなる君主政体も安泰ではない。逆境に自信をもってこれを防衛する力量を持たない以上、すべては運命に委ねることになる。
第14章 軍隊のために君主は何をなすべきか
  • 君主は戦争、軍制、軍事訓練の他にいかなることを自分の業務としてはならない。そのことが自らの座を保持させる。逆に軍備より甘美な生活を重んじた時に政体を失う。
  • 武装した者は非武装の者への侮りがあり、非武装の者は武装した者への疑いがあるため、武装した者と非武装の者とで軍事行動をうまく進めることはできない。
第15章 人間、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて
  • いかに人間が生きているかと、いかに人間がいきるべきかとの間にには隔たりがあり、なすべきことを重んずるあまりに、なされていることを軽んずるものは破滅する。
  • 君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得る業を身につけ、必要に応じて使ったり使わなかったりする必要がある。
  • 君主は思慮ぶかく振る舞い、政権を奪い取る恐れのある悪徳にまつわる悪評から可能な限り身を守るすべを知らねばならないが、悪徳なくして政権を救うことが困難な場合には、悪評のなかへ入り込むことを恐れてはならない。
第16章 気前の良さと吝嗇について
  • 君主が気前が良いという評判を求めると、全財産を使い果たし、民衆に重税を課し、金銭を得るためにあらゆる手段を講じるようになる。臣民は彼を憎むようになるか、貧しくなったため侮るようになるだろう。
  • 一方、倹約することで、歳入だけで防衛ができ、臣民に重税を課す必要がなくなり、奪い取らないことで多くの人に気前の良さを示し、与えないことで少数の人びとに吝嗇を行使することになる。
  • 君主になる段階では気前の良さは必要だが、君主になってからは吝嗇の悪評を得る方がよい。
第17章 冷酷と慈悲について。また恐れられるより慕われる方がよいか、それとも逆か
  • 君主は慈悲深く冷酷ではないという評判を取りたいと願うべきであるが、臣民の結束と忠誠心を保たせるためならば冷酷という悪評を意に介してはならない。特に、軍隊を率いているときには冷酷でなければ軍隊の統一を保ち軍事行動を起こすことはできない。
  • 人びとが慕うのは自分たちの意に叶うかぎりであり、恐れるのは君主の意に叶う限りであるから、君主は自己に属するものに拠って立ち、他者に属するものに拠って立ってはならない。憎まれないことと恐れられないことは両立するので、憎しみだけは逃れるように努めなければならない。
第18章 どのようにして君主は信義を守るべきか
  • 君主たるものに必要なのは、徳を身につけてつねに実践するのは有害だが、身に着けているかのように見せかけることは有益である。徳に反することが必要になったときには、逆になる方法を心得ていて、なおかつそれが実行できるような心構えをあらかじめ整えておかねばならない。
  • 大衆はいつでも外見と結果のみに心を奪われるから、ひたすら勝って政権を保持するのがよい。手段はみなつねに栄誉のものとして正当化され、誰にでも称賛されるだろう。
第19章 どのようにして軽蔑と憎悪を逃れるべきか
  • 君主は憎悪と軽蔑を招くことは避けなければならない。憎悪を招くのは臣民の財産や腐女子を奪う行為で、これは慎まなければならない。大多数の人びとから名誉や財産を奪い取らない限り人びとは満足して生活する。ただ少数の者たちの野望とだけ闘いさえすればよい。
  • 民衆が自分に好意を抱いているときには陰謀をあまり気にしなくてよい。だが、自分に敵意を抱いたり自分を憎悪しているときには、あらゆる事態やあらゆる人を恐れねばならない。
第20章 城砦その他、君主が日々、政体の維持のために、行っていることは、役に立つのか否か
  • 君主は新たに屈従させた都市の武装解除をすることがあるが、かつての敵で今は自分の政体に依存しなければならないものは、自分の忠誠を証明するためにより忠実であるため、彼らの武装を解除しないほうがよい。
  • 外敵より民衆を恐れる君主は城砦を築くべきだが、民衆より外敵を恐れる君主はこれなしで済ませるべきだ。
第21章 尊敬され名声を得るために君主はなにをなすべきか
  • 君主は中立を取らず、敢然と幟旗を鮮明にすべきである。もし同盟者が勝った場合は相手はあなたに恩義を感じる。一方、同盟者が敗れた場合は必ずや彼に受け入れられ、運命が甦ったときはそれを分かち合う仲になる。中立を保った場合には、必ず勝った方の餌食となり、負けたほうは溜飲を下げるだろう。
  • 自分より強い有力者を同盟者に選ぶと、たとえ勝ってもその有力者の虜になる。君主は可能なかぎり隷従する状態は逃れなければならない。
第22章 君主が身近に置く秘書官について
  • 君主のことよりも自分のことを考えている側近は断じて信頼してはならない。また、君主も彼を忠実に保たせるためには、側近のことをも思いやり、名誉を称え、富ませることで自分への恩義を深めさせ、君主がいなければ自分が存在しえないと考えるよう配慮しなければならない。
第23章 どのようにして追従者を逃れるべきか
  • 誰もが君主に真実を言えるときには、君主を尊敬するものはいなくなる。そこで、政体のなかから賢者たちを選び出し、彼らのみだけに、しかも、君主から尋ねられた時だけに、真実を告げる自由を与えるとよい。
第24章 イタリアの君主たちが政体を失ったのは、なぜか
  • イタリアで政体を失った支配者のことを考えると、まず軍備にまつわる共通の欠陥がある。それは、彼らが平穏な時代にあって変転することを考えなかった怠惰に原因がある。
第25章 運命は人事においてどれほどの力をもつのか、またどのようにしてこれに逆らうべきか
  • 運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らってあらかじめ策を講じておかなかった箇所である。
  • 運命は時代を変転させるが、人間は自分の態度を変えることができないから、合致している間は幸運に恵まれるが、合致しなくなると不運になる。
 第26章 イタリアを防衛し蛮族から解放せよとの勧告
  • イタリアから外国の軍を排除するには、まずは君主が固有の軍備を軍備を整える必要がある。
  • 君主によって統率され、全体が一体となれば有能な存在となり、イタリア人古来の力量を発揮して外敵から身を守ることができるだろう。