テラワーダと大乗
仏教をテーマとしたPodcastを聴きながら、自分の仏教への考え方を書いてみたくなったので、久しぶりにブログを書いてみよう。
a scope ~リベラルアーツで世界を視る目が変わる~:Apple Podcast内の#13 実は極めて論理的。「仏教」の世界へようこそ(ゲスト:松波龍源さん)
このPodcastに話をしている松波流源というひとは真言宗の僧侶であるため「小乗仏教」という言葉を使っているが、最近は「テラワーダ」と呼ばれている流れの仏教に自分は共感している。もう少し正確に言うと、中村元先生が翻訳しているおそらくブッダその人の思想が伝わっている初期仏教の経典に共感している。
ブッダは厳しくて誰もが目を背けたくなる、しかし、真理といか言いようがないことを語っていると思う。
ブッダの教えの目的は、そのような厳しい真理を理論的になだけではなく、身体的、心理的にも腑に落ちる形で理解することである。
これは、極めて難しい。ブッダの教えは厳しすぎる真理であり、自分を含め多くの人は、理屈としてわかっても、自分の中に落とし込むことはできず、多くの人がブッダの教えを否定したり、ねじ曲げたりしてしまう。ほぼあらゆる人が一生涯のなかで悟りに至ることはできない。その意味では、実践的な意味では極めて救いのない教えに見える。
ただ、ブッダの生きていた時代、地域では、輪廻が信じられていた。だから、今この生で真理を理解できなくとも、長い輪廻を通じて悟りに到達すればいい。今この生では、次の生に向けて少しでも真理に近づければよい。それでこの生には意味があったことになる。
しかし、そんな仏教が輪廻の概念がない中国に持ち込まれると、本質的に変質する。輪廻の概念がなければ、仏教は本当に救いのない宗教になってしまうし、大多数の人にとってこの生は苦しみに満ちているだけで、意味のあるものではなくなってしまう。
このため、ブッダの教えをねじ曲げて、救いがあるかのような教えを付け加える。ブッダ以外にもをさまざまな仏がおり、これらの仏が人々を救ってくれるという教えを付け加えた「大乗仏教」が生まれる。
しかし、ブッダ本人は真理の教えを説いたけれど、その真理の教えを理解することはそれぞれの人が自ら掴むしかないと考えていた。それを、仏という他者が救ってくれるという考え方を導入したことで、「大乗仏教」はもはやブッダと教え「仏教」とは言えないと思う。
親鸞は典型的で、自力で悟りを得ることを目指したが、真剣に修行を突き詰めれば突き詰めるほどその困難さに気づき、修行に挫折して、阿弥陀仏に帰依する。
しかし、である。輪廻を信じない社会では、ブッダの教えは救いがない。だからといって、ブッダの教えそのものの真実性は揺るがないように思える。だから、阿弥陀仏のように、もともとのブッダの教えになかった、人々を救う存在を導入するのはご都合主義に見える。
テラワーダの出家者、僧侶は、自らの悟りを目指すもので、在家の人々を悟りに導くわけではない。大乗仏教の僧侶は、在家の人々を救うことを目指している。これは、ブッダが不可能と言っていたことをできると思い上がって考えているのではないか。
今の日本仏教のあり方は、ブッダの教えからは大きく離れている。仏教をブッダの教えという意味にとらえるならば、もはや仏教ではない別の宗教であるし、別の名前を名乗った方がよい。また、日本仏教の堕落の本質的な原因は、そもそもありえないはずの「他力」の概念の導入にあると思っている。
素朴な疑問だが、ブッダは極端な修行は悟りに結びつかないと明確に否定しているのに、真言宗では激しい修行をする。なぜ、ブッダの教えにあきらかに反していることをしているのだろうか?