正確な描写

レイモンド・チャンドラー「さよなら、愛しい人」のなかに次のような一節があった。

 その年のカレンダーの絵はレンブラントだった。図版の色の配合があまり良くなくて、おかげでその自画像はどことなく薄汚れて見えた。そこにいるレンブラントはしみったれたパレットを汚い親指で持ち、どのような観点からも清潔とは言い難い房付きのベレー帽をかぶっていた。もう一方の手は筆を宙に掲げていた。もし誰かが前払い金をくれたなら、そろそろ仕事にかかってもよかろうという顔つきで。彼の顔は年老いてたわみ、人生に対する嫌悪感に満ち、酒の弊害を滲ませていた。しかしそこには苦々しさと背中合わせになった快活さがあり、私はそこが気に入っていた。なにより彼の目は朝露のように明るかった。

たしかに、レンブラント晩年の自画像には、「苦々しさと背中合わせになった快活さ」がある。実に正確な描写だと思う。
同じくチャンドラー「ロング・グッドバイ」の解説のなかで、村上春樹は次のように書いている。

 細部ということで話を続ければ、チャンドラーの小説のページを開くとき、話の本筋から逸れた部分をじっくりと読み込むのが、僕にとっての愉しみのひとつになっている。プロットとはほとんど関係ない寄り道、あるいはやりすぎとも思える文章的就職、あてのない比喩、比喩のための比喩、なくもがなの能書き、あきれるほど詳細な描写、無用な長口舌、独特の屈折した言い回し、地口のたたきあい、チャンドラーの繰り出すそういうカラフルで過剰な手管に、僕は心を強く惹かれてしまうのだ。

レンブラントの描写には、マーロウの生き方が投影されているのでまったく無用な部分とはいえないけれど、話の本筋から逸れた部分ではある。本筋には関係ないけれど、チャンドラーの正確な観察眼に基づいた描写を読むこと、それ自体が楽しい。

さよなら、愛しい人

さよなら、愛しい人

ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ