日本のintellectualsはもっと英語で発言しよう
日本の英語教育をめぐる議論を読んでいると、どうにも気持ち悪い。
英語教育を改善すべきとの提案は善意から発しているのだとは思う。しかし、そのような議論をしているのは英語の習得に時間をかけることができたintellectualsであって、結局のところ「蒙昧な愚民を如何に啓蒙すべきか」という上から目線を感じる(私自身もこのblogでこの種の議論に加担してしまっているが)。
むしろ、国家の予算を投入している高等教育を受ける機会を得たintellectuals自身が英語を使ってどのような貢献をすべきか、という議論も重要だと思う。
古くある議論だが、言語、文化的に見ると日本は圧倒的に輸入超過だろう。Internetを通じて直接sourceにaccessできるようになっても、未だに外国語ができるintellectualsが海外の情報、書籍、ideaを翻訳、適用するという形態の文化的輸入は一般的に見られる現象である。もちろん、そのような文化的輸入にも大きな意味があるのは間違いないが、日本のintellectualsはそこに力を入れすぎているのではないかと思う。
ささやかな試みであるが(しかも、最近はあまり更新できていない)、英語でblog(http://yagian.blogspot.jp/)を書く経験を通じて、日本のintellectualsはもっと英語で発言すべきと強く感じた。大きくいうと三つの理由がある。
今のところ、英語圏では日本という環境に生まれ育った人の発言は少なく、希少価値がある。日本語圏のなかで日本語で発言していると、自分の日本人性について気づくことは少ないが、英語圏のなかで英語で発言していると自分の日本という出自に基づく独自性に気がつく。英語圏のなかでの議論において、独自の観点からの意見を提供しうる立場にいる。それを活用することは日本のintellectualsとしての責務ではないか、とすら思う。
例えば、民主主義について議論するとき、その理念を過剰に美化することなく、相対化する視点を持っていると思う。Americansは、世界に民主主義を広め、定着させようと試み、多くの地域で失敗している。日本の民主主義は、彼らの目からは相当歪んでいるとは思うが、一応は定着した数少ない成功例である。その事例を内側から見ることによって、民主主義の拡大、定着のために有益な指摘、提案ができることは多いと思う。
私の英語のblogのなかで、"Is Japan Really a Democratic Country?"(http://goo.gl/4uBJd)というentryは最上位の人気がある。海外からも日本の民主主義に対する関心も高いのではないだろうか。そのような疑問に回答を与える責任が日本のintellectualsにあるはずだ。
二つ目の理由として、英語圏のなかで英語で発言することで議論が深められることがある。日本語圏のなかで日本語で発言していると、日本の文脈に依存して充分に説明せずとも「通じて」しまうということがある。しかし、英語圏ではそのような文脈は共有されていないため、おおげさに言えば普遍的な理性に訴えるように書かなければならない。難しいことであるけれど、日本の文脈に依存して思考を回避していたところに直面させられるため、間違いなく議論は洗練される。
昨今の改憲に関する議論について、自分の主張を外国人に理解できるように、できれば外国語で、難しければ日本語でもよい、書いてみればよい。一気に本質的な議論に踏み込むことになるだろう。
そして、海外から日本について知りたいというneedsがあり、それに応えるという理由もある。日本の紹介をしてくれている海外の方も多いけれど、かゆいところに手が届いていないところもある。また、海外の方の日本紹介と、日本人による日本紹介は視点が違い、それぞれに価値があると思う。
海外の方が書いた日本のマンガを批評するblogに引用されたことでaccessが増えた"Heta-Uma (Unskillful but Skillful) and Uma-Heta (Skillful but Unskillful)"(http://goo.gl/AltqE)というentryがある。googleで検索してみると、「ヘタウマ」について英語で解説した文章は見つからない。まだまだ日本紹介にも埋めるべき穴がある。
日本のintellectualsはもっと英語で発言しよう。