面倒くさい人、バラクに幸多かれ(そして自分も)

ミシェルとバラクと「ドゥ・ザ・ライト・シング

オバマ家にはなぜかずっと関心を持っている。

以前、長女のマリアが反抗期で、公的な行事でもふてくされた態度をとっていたときは、これからどうなるのかずっと気になっていた。その時期には、ミシェルとバラクの仲にも隙間風が吹いていたように見えていた。結局、マリアの大学入学のためにバラクが熱心に動いたこともあり、反抗期を抜けてすっかり落ち着いたようだ。

www.dailymail.co.uk

ミシェルとバラクは私よりちょっと年上だけど、結婚した年が私と同じで、なんとなく同世代感を抱いている。彼らがはじめてのデートで見た映画は、スパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」だという。私はこの映画を恵比寿ガーデンプレイスの映画館で見たことをよく覚えている。この映画ではじめてヒップ・ホップ・カルチャーに本格的に触れ、印象に残っている。自分の同世代の黒人のカップルがはじめてのデートで見る映画にふさわしいなと思う。

以下の記事のなかでミシェルは「彼はインディペンデントの映画を選んで趣味のいいところを見せようとしたんだけど、とってもいい映画だった、すばらしかった」と言っている。バラクの「見栄」がちょっとかわいい。

www.mtv.com

インターネットで検索するとミシェルとバラクの写真はたくさん見つかる。ホワイトハウスに入って以降は、専属カメラマンのピート·ソウザが撮った「すてき」すぎる写真が多い。たしかに「すてき」な写真だけれども、ちょっとかっこよすぎる。私が気に入っているのは、ミシェルとバラクが婚約時代に、バラクのルーツの地であるケニアを訪れたときにとったというこの写真だ。

バラクがこのときから「オバマ・ジーンズ」を履いているのがなかなか笑える。「すてき」すぎる写真と違って、バラクが笑っていないのも印象的だし、対象的にミシェルはかわいらしい。

https://timedotcom.files.wordpress.com/2016/08/barack-obama-michelle-obama-love-story-romance-photos-02.jpg?w=1200&quality=85&h=828

内向的な面倒くさい人

バラク・オバマについて書かれたものを読むと、彼はなかなか打ち解けない人だということがわかる。ジョージ・W・ブッシュは気安い人柄で、誰とでもすぐ打ち解けたようだ。それに比べるとバラクはなかなか「むずかしい人」のようである。小泉純一郎ジョージ・W・ブッシュは、仕事を超えた仲の良さがあったように見える。一方、安倍晋三とバラクは仕事以外の話をしていたようには見えない硬い雰囲気がある。この写真の表情を見ても、気難しさが伝わってくる。

しかし、バラクが心を開く相手がいない訳ではない。オバマ政権の財務長官としてリーマンショックの対応にあたったティモシー・F・ガイトナーは「ガイトナー回顧録」のなかで、バラクと打ち解けることができ、個人的に話し込んだと語っている。

 思うに、バラクはいわゆる「内向的」な人なのだと思う。演説は非常にうまい。しかし、個人的な人間関係づくりは苦手。しかし、限られた人とは打ち解けることができる。「ガイトナー回顧録」を読む限り、ガイトナー自身も内向的な人のように思う。似ているのでウマがあったのかもしれない。

ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相

ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相

 

 面倒くさい人、バラクに幸多かれ(そして自分も)

私自身、自分が内向的で面倒くさい人という自覚がある。たぶん、私の周囲には、こいつはとっつきづらいなぁ、と思っている人が多いんだと思う。バラクもどうもそう思われているようだ。しかし、ガイトナーのように打ち解けられる人もいるし、そういう人は貴重なだけにいきなり話し込んでしまったりもする。私自身にも似たようなことがある。

 そういう面倒くさい人と付き合っているミシェルは苦労をしたこともあるんだろうなと想像するし、バラクとマリアの関係が難しい時期があったのも当然だとも思う。しかし、そういう時期を乗り越えて、いまのオバマ家は平和な時期を迎えているように見える。

むずかしい人、バラクに幸多かれ(そして自分も)。

ヒラリーの悲しみ

夫が好きで好きでしょうがない

BSで各国のニュースを紹介する「キャッチ!世界のトップニュース」という番組で、国際政治学者の藤原帰一が月1回さまざまな国の映画を紹介するコーナーがある。映画の選択もいいし、国際情勢、社会情勢を絡めた解説もわかりやすく、おもしろくて、毎回楽しみにしている。

ニューズウィークのウェブサイトで、藤原先生がアメリカ政治を映画を絡めて紹介する記事が載っていた。そのなかで、ヒラリー・クリントンに関して書いている部分が非常に腑に落ちたので引用したい。

夫が好きで好きでしょうがない、この人を大統領にするために何でもする。しかし、この夫には女性がたくさんいる。事もあろうに子供まで生んだ人もいる。そんなふうに自分に傷ついて、これで終わりだろうと思うのだけど、もちろん終わりじゃない......。

…「この男のために私は人生を捧げてきた。そんなことをする甲斐のある人じゃない。女の子を追い掛けること以外、この人の頭の中には何もない」と。そうすると、私の人生は何だったんだろう、となる。断片的な証拠があるだけですが、1人娘のチェルシーはお父さんに苦しめられたヒラリーに向かって「お母さんが政治家になったらいいじゃない」と言ったといいます。ヒラリーが上院議員に立候補する前か後か分かりませんが。チェルシーにしたがって、彼女は夫を応援する人生をやめて自分が政治家になる人生を選ぶことになります。

www.newsweekjapan.jp

大統領を目指す茨の道

最初は、ビルからプロポーズをして、一回はヒラリーが断っているというが、やっぱりヒラリーの方がビルに惚れているんだろうなぁと思う。まあ、ヒラリーとビルのほんとうの関係など私にわかるはずもないけれど。

大統領になったビル・クリントンという人格的に破綻しているところもある天才的な政治家と結婚したことは、ヒラリーのキャリアのプラスになったところもある。彼との結婚がなければ大統領選挙を目指す位置までたどり着くことは難しかったかもしれない。しかし、大統領選挙を戦う上では、ビルと結婚したことが大きなマイナスにも働いている。

ビル・クリントンが大統領任期を終えた後、ヒラリーは上院議員として政治家としてのキャリアを積み、大統領選挙を目指す。しかし、最初の挑戦では民主党予備選挙バラク・オバマに敗れてしまう。今にして思えば、このときがヒラリーが大統領になる最大のチャンスだったけれど、バラク・オバマというあまりにも強力な競争相手と同じ選挙を戦うことになったのは不運としか言えない。

 最近のアメリカの大統領選挙を振り返ると、ワシントンで長いキャリアはマイナスになることがよくわかる。ワシントンでのキャリアが長い候補の方が勝ったのは、1988年の父親の方のジョージ・ブッシュとマイケル・デュカキスの選挙までさかのぼる。そして、ジョージ・ブッシュは1992年の選挙では、ワシントンのアウトサイダーだったビル・クリントンに敗れてしまう。

ヒラリーは大統領を目指して、上院議員、国務長官のキャリアを積み上げるが、結局、それが大統領になるためにはプラスの作用を及ぼしていない。1992年はワシントンのアウトサイダーだったクリントン夫妻は、2016年にはすっかりインサイダー中のインサイダーになってしまう。そして、国務長官時代のメール問題が今回の大統領選挙の最後までつきまとった。

ヒラリーの悲しみ

ビルの影を払い除け自己実現するには、やはり自分の力で大統領になるしかなかったのだろう。

オバマに敗れたときは、それでもまだ諦めがついたのだと思う。彼は高邁な理想を演説で訴え、アメリカ初の黒人大統領になったのだから。また、彼女自身もまだ大統領になるチャンスが残されていた。

しかし、このタイミングに比べ、8年後はさまざまな不利な条件が増える。8年後は大統領候補者としては高齢になってしまう。2期以上任期をまっとう大統領の後に、同じ政党の候補者が当選することは少なく、やはり1992年ジョージ・ブッシュまでさかのぼる。そして、8年間ワシントンでキャリアを積むことで、よりインサイダーのイメージが濃くなってしまう。

オバマは、マイノリティからの熱狂的な支持、民主党の伝統的な基盤に加え、今回の選挙戦ではバーニー・サンダースを支持した層からも支持されていた。それに比べると、ヒラリーの支持者は民主党の伝統的な基盤(労働組合は弱体化していた)とフェミニストが中心で、オバマほどの広がりがなかった。8年前大統領候補者になれたら、もっと広範な支持を受けられただろう。

今回は敗れた相手があのドナルド・トランプだった。そして、もう次のチャンスはない。ヒラリーの悲しみの深さはいかほどだろうかと、同情する。ヒラリーは、茨の道を歩んできた人だと思う。

トランプの内心は?

ヒラリーは本心を隠しているというイメージがあったようだけれども、私から見ると何を考えているのかがわかりやすいと思う。

ドナルド・トランプは、あけっぴろげのようで、実のところ何を考えているのかよくわからない。そもそも、なぜ大統領選挙に出たのか、大統領になって何を実現したいのか、わかるようでよくわからない。

トランプに関する報道の多くは、彼の「演技」を誇張して伝えるものが多く、彼の内心、肉声があまり聞こえてこないように思う。彼の内心に触れるレポートを読んでみたいと思っている。

クラフトビールと一期一会

アメリカのビールはカヌーに似ている

以前のエントリーで紹介したPodcast "How I Built This"で、今度はクラフトビール企業の草分け、サミュエル・アダムスのオーナーのインタビューが放送されており、なかなか興味深かった。

今ではアメリカのクラフトビール文化はしっかり根付いているけれど、昔はアメリカのビールがおいしいという人はいなかった。このPodcastの中で、モンティ・パイソンジョークが紹介されていた。

「アメリカのビールはカヌーに似ている。だって、水に近いもの。」

yagian.hatenablog.com

www.npr.org

 クラフトビールロゼワインとの一期一会

この夏休みにポートランド旅行をして、地元のクラフトビールをたっぷり飲んだ。とてもおいしかった。旅行前、アメリカのクラフトビールを求めて、東京でクラフトビールを出すお店を巡ったり、酒屋でいろいろ探したりしていた。しかし、逆に、ポートランドで満足したせいか、クラフトビール熱は少々覚めた感じもする。

以前も似たようなことがあった。プロバンス地方に旅行した時、夕方、野外に置かれたテーブルで飲むロゼワインがとてもおいしかった。日本ではロゼワインはほとんど飲んでいなかったけれど、感激するぐらいのおいしさだった。けれども、帰国してから同じロゼワインを飲んでも、あのプロバンスでの一杯のようなおいしさはない。

お酒のおいしさには、いろいろな構成要素があるのだろう。ビールやワインのようなお酒は、品質が安定しないから、輸送や保存のコンディションで味が変わる。そして、気候と料理、旅での高揚感なども大きな影響がある。

結局、アメリカのクラフトビール、南仏のロゼワインがおいしいということではなく、あのポートランドのマイクロブリュワリーが直営しているお店で夏の夕方に飲んだあの一杯のビールがおいしかったのであり、あのプロバンスの空気のなかで飲んだあの一杯のロゼワインがおいしかったのであり、それを東京で再現することはできない、とういことだ。 

yagian.hatenablog.com

世界のビールのなかに置いてみるとバドワイザーも日本のビールもけっこういける

もっぱら日本のビールを飲んでいた時は、ビールって単調だなと思っていた。しかし、アメリカのクラフトビールをはじめとして、世界のビールをいろいろ飲んでみると、日本のビールは、それはそれとして、個性があるんだなとわかってきた。日本のビールだけを飲んでいるのは飽きるけれど、たまに世界のビールの一種として、例えば、シンハビールと横並びで、日本のビールを飲むとけっこういけると思う。

同じように、クラフトビールとならべてバドワイザーを飲むと、これはこれで個性があって、意外といけると思う。昼間、ハンバーガーを食べながら飲むんだったら、バドワイザーも悪くないと思う。

前にも書いたけれど、ビールは品質が安定していない。近所に、ふつうの一番搾りの生ビールがやけにおいしいお店がある。ビアサーバーの管理がよくて、注ぎ方も上手なのだろうか。そういうところで寿司と一番搾りの生ビールを飲むのもおいしい。

サルトルによるノーベル文学賞辞退声明の和訳

 過去にノーベル賞を辞退した人たち

今回のノーベル文学賞ボブ・ディランへの授与に関するニュースを見て、そういえば過去にノーベル賞を辞退した人はいるのだろうかと思い、検索してみたところ、Wikipediaにジャン=ポール・サルトル、レ・ドゥク・ト、ゲルハルト・ドーマクの三名が辞退したとの記述があった。

これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、ジャン=ポール・サルトル(1964年文学賞辞退)、レ・ドゥク・ト(1973年平和賞辞退)、ゲルハルト・ドーマク(1939年生理学・医学賞辞退)の3人であるが、ドーマクはナチスの圧力で強制的に辞退させられたものであり、戦後の1947年に賞を受け取っているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。

ノーベル賞 - Wikipedia

 別のソースでは、ボリス・パステルナークも受賞を拒否した(を強いられた)という。

ドクトル・ジバゴ』を記したパステルナークは、サルトルとは事情が異なり、当時のソ連の圧力により、受賞を拒否せざるを得ない状況に。後に遺族が賞を受け取りました。

spotlight-media.jp

サルトルノーベル賞を辞退した理由

パステルナークは自発的な辞退、拒否ではないから、ディランとは比較できないだろう。そこで、サルトルの辞退の理由についてさらに検索してみたところ、ノーベル賞を辞退したときにサルトルが出した声明が見つかった。 

この声明によると、ノーベル賞の辞退には、個人的な理由と客観的な理由の二つがあるという。

彼の作家としての信条として、ノーベル賞に限らず公的な賞は辞退することにしているという(レジオン・ドヌール勲章も辞退しているとのこと)。作家は、あくまでも一個人として書いた文章のみを手段として行動すべきであり、賞を受賞することは読者に無用なプレッシャーを与え、特定の組織に関与することになってしまうとの考えからのようだ。

また、客観的な理由として、自分は社会主義、東側陣営を支持しているが、ノーベル賞を「ブルジョア的」とする見方があり、ノーベル賞もそれに影響されているからだという。例えば、ノーベル文学賞は、西側の作家か東側で体制に抵抗している作家のみが受賞していることを指摘している。

あと、最後に賞金について率直なコメントが書かれている。まとまった金額の賞金を貰えれば、価値があると考えている運動の支援に使える、しかし、受賞を拒否すればその支援ができなくなる、というジレンマに苦しんだという。しかし、結局のところ、賞金のために自分の信条を曲げてまで受賞することはないと考えたという。

www.nybooks.com

内示をせずにノーベル賞を授与することの危険性

ディランがノーベル文学賞に選ばれたというニュースを聞いた時、まっさきにノーベル賞って受賞者に内示をして受諾の意志を確認するのかな、と疑問に思った。このサルトルの声明を読むと、受諾の意思確認はしていない、ということがわかる。

サルトルは、ル・モンド紙で自分がノーベル文学賞の有力候補になっているという記事を読み、選考された場合辞退する旨を書いた手紙を送ったが、行き違いになってしまったという。

サルトルボブ・ディランは、個人的な信条で辞退したり無視したりしているので、個人的な問題といえば個人的な問題である。しかし、今後、サルマン・ラシュディノーベル文学賞に選ばれた場合、アカデミーだけでなく、ラシュディ自身にも危害が及ぶ可能性が高まるから、受諾の意志の確認なく授与することに問題があるように思う。

 以下に、サルトルの声明を和訳しようと思う。英訳からの重訳でもあり、また私の英語の能力の制約から不正確なところや読みにくいところもあるけれど、なかなか興味深いことが書かれている。これを読むと、ディランもなんらかなの形、声明、文章でなければ歌でもよいから、ノーベル賞に対する反応を示してほしいなと思った。

ジャン=ポール・サルトル(リチャード・ハワード訳)1967/12/17発行(和訳)

ジャン=ポール・サルトルは、10月22日にスウェーデンの記者に対して発表した声明のなかで、ノーベル文学賞の辞退について説明した。その声明は、サルトルが認めたフランス語訳でル・モンド紙に掲載された。以下の英訳はリチャード・ハワードによるものである。

ノーベル賞が授与され、私が辞退した出来事が、スキャンダルのようなものになってしまったことを非常に残念に思っています。進行していたことが私に十分伝えられていなかったことが原因でした。スェーデン・アカデミーの選考が私に傾きつつあるがまだ決定には至っていない、とのスェーデン特派員のコラムが10月15日付けフィガロ紙文芸欄に掲載されたのを目にして、アカデミー宛に手紙を書き、翌日発送しました。これで問題は解決し、これ以上の議論は起きないと思っていました。

その時は、ノーベル賞が受賞者の意向を確認せずに賞を授与するとは知らず、今回の出来事を防ぐ余裕があるに違いないと思っていました。しかし、今は、スェーデン・アカデミーの決定を覆せないということは、理解しています。

受賞を辞退する理由は、アカデミー宛の手紙のなかで説明したとおり、スェーデン・アカデミーにもノーベル賞そのものにも関係ありません。手紙の中に、個人的な理由と客観的な理由の二つについて書きました。

個人的な理由は以下の通りです。私の辞退は今回限りのジェスチャーではなく、公的な表彰は常に辞退しています。戦争が終わった後の1945年にレジオン・ドヌール勲章を授与されたとき、私は政府を支持していましたが、辞退しました。同様に、数人の友人に勧められましたが、コレージュ・ド・フランスに入ろうとしたことはありません。

この方針は、私の著述業に関する考えに基づいています。ある政治的、社会的ないし文学的な立場をとる作家は、自分自身の文章のみを手段として行動すべきです。作家が受賞した表彰は、私が望ましくないと考えるプレッシャーを読者に与えます。私が自分について「ジャン=ポール・サルトル」と署名することと、「ノーベル賞受賞者ジャン=ポール・サルトル」と署名することは、同じことではありません。

表彰を受け入れた作家は、同時に、表彰した組織、団体と関係することになります。私のベネズエラ革命党への共感は個人的なものですが、もしノーベル賞受賞者としてベネズエラ人の抵抗を擁護すれば、そのことを組織としてのノーベル賞全体に関係させることになります。

それゆえ作家は自分自身を組織に転化させることを拒否しなければなりません。今回のように最も名誉な状況においてでもです。

もちろん、この姿勢は完全に私個人のものです。これまでの受賞者への批判をまったく意味していません。光栄にも知り合うことができた受賞者の方々に対しては、深い敬意、敬愛を持っています。

客観的な理由は以下のとおりです。今日、文化的な戦線で起こりうる唯一の戦いは、東西の二つの文化の平和的な共存を求めた戦いです。私は、お互いを受け入れなければならないと言いたいのではありません。二つの文化の対立は衝突という形態を取らざるを得ないことはわかっています。しかし、この対立は、組織の干渉なく、純粋に個人の間、文化の間で起きなければなりません。

私自身、二つの文化の矛盾に深く影響されています。私はこの矛盾から成り立っているといってもいいでしょう。私は社会主義と東側陣営と呼ばれているものに共感していることを否定できません。しかし、私はブルジョアの家庭、文化に生まれ、育ちました。このことで、私は二つの文化を近づけようとするすべての人々と協力できるようになりました。それでもなお、当然ながら、私の望みは「勝つべき人が勝つ」ことです。勝つべき人とは、社会主義です。

このことが文化的な権威からの表彰を受けられない理由です。なかんずく、東側ではなく、西側の権威からは、たとえその存在に共感していても。また、社会主義陣営に共感しているといっても、誰かが私を表彰したいと思ったとしても、例えば、レーニン勲章は受け取れません。

ノーベル賞それ自体が西側陣営の文学賞ではないことはわかっていますが、ノーベル賞は西側陣営で成り立っていますし、さまざまな出来事はスウェーデン・アカデミーのメンバーの領域外で起きています。それゆえ、現在の状況下では、ノーベル賞は、客観的に見て西側か東側の反逆者の作家にのみ授与されています。例えば、ネルーダには授与されていません。彼は南アメリカの最も優れた詩人のひとりです。明らかにノーベル賞にふさわしいにもかかわらず、ルイス・アラゴンに授与されないのはなぜでしょうか。ショーロホフではなく、パステルナークにノーベル賞が授与され、ノーベル賞を受賞した作品が国内で出版を禁じられたもののみということを残念に思います。他の方面についても同じような姿勢でバランスが決められています。アルジェリアの戦争の間に「121宣言」にサインした時であれば、私はノーベル賞を受けたでしょう。なぜなら、私だけではなく、私たちの自由を求めた戦いにも栄誉が与えられたからです。しかし、そのようにはなりませんでした。戦いが終わりはじめてノーベル賞は私に授与されました。

スェーデン・アカデミーの動機について語るならば、表彰は自由から成り立っています。その言葉は、さまざまな解釈ができます。西側陣営においては、「自由」とは一般的な自由のみが意味されます。私は、個人的には「自由」によって、一足の靴と満腹できる食事以上の権利からなる確固たる自由のことを意味しています。ノーベル賞を受けるよりも辞退する方が安全なように思えます。もしノーベル賞を受ければ、私自身を「客観的な名誉回復」と呼ぶであろうものに捧げることになるでしょう。フィガロ紙の文芸欄の記事には、「物議をかもした政治的な過去は問題とならなかった」と書かれていました。この記事がアカデミーの見解ではないことはわかっていますが、私が賞を受けることが、右翼陣営からどのように解釈されるかは明らかです。私が同志たちに過去の過ちを認める用意ができているとしても、この「物議をかもした政治的な過去」は今でも過去のものにはなっていません。

ノーベル賞が「ブルジョア」の賞だとは言いませんが、私がよく知っている特定の人々から避けようもなくブルジョア的解釈がなされるでしょう。

最後に、賞金の問題を話しましょう:アカデミーが受賞者に、栄誉とともにまとまった賞金を授与するということは非常な重荷になり、この問題は私を苦しめます。賞と賞金の両方を受け取ることで、私が重要だと思う組織や運動を支援することができます。ロンドンのアパルトヘイト協会を思い浮かべています。さもなければ、寛大な方針の賞を辞退することで、そのような運動が切実に必要とする支援が奪われます。しかし、これは誤った問題の立て方だと確信しています。西側にも東側にも取り込まれないことを望んでいるために、私は25万クラウンを諦めます。しかし、25万クラウンのために自分自身と全ての同志と共有している原則を捨てることはできません。

賞を授与され、かつ辞退せざるを得ないことは、私にとって非常な苦痛です。

スェーデン市民のみなさんへの共感のメッセージでこの宣言を締めくくりたいと思います。

Airbnbのストーリー:地に足がついた展開

朝はポッドキャストを聞き、夜は音楽を聴く

朝の通勤の時は、まだ元気があるので、たいてい英語のポッドキャストを聞いている。

夜帰宅する時は、リラックスしたいので、たいていGoogle Play Musicで音楽を聴いている。

iPodでは、ニュースを聞くこともあるし、まとまったインタビューを聞くこともある。最近、"The 25 Essential Podcasts of 2016"という記事を見つけ、そのなかで紹介されているNPRが提供する"How I Built This"というポッドキャストを試しに聞いてみたところ、非常におもしろかった。

www.esquire.com

"How I Built This" by NPR

このポッドキャストは、なにか新しいサービス、事業を起こした起業家などにその経緯をインタビューするものらしい。

いちばん新しいエピソードはAirbnb。その他、InstagramやRadio Oneなどの創設者にインタビューをしている。そのうち本になりそうなテーマをいちはやく取り上げている。

www.npr.org

Airbnbのきっかけ

Airbnbの創設者Joe Gebbiaは、デザイン系の出身で、一時期はブックデザイナーとして働いていたそうで、ITの専門家でも、ホテルや旅行業界に携わっていたわけではないらしい。

Airbnbのアイデアを得たのは、実際に自分の部屋に直接の知り合いではない人を泊めることになったことがきっかけだったという。最初はいろいろ不安になったけれど、実際にやってみると、悪い経験ではなかったそうだ。

その後、サンフランシスコでデザイン系のコンベンションがあり、ホテルが満室になったというニュースを聞いた。そこで、ホテルに泊まれない人に部屋を提供することを考え、デザイン系のウェブサイトに部屋に泊める(80ドルで)広告をだしたところ、すぐに申し込みがあったという。

Airbnbのサービス立ち上げ

SXSWが開催される時期も、いつもホテルが満室になる。そこで、Airbnbの原型になるサービスとして、部屋の貸し借りを仲介するウェブサイトを立ち上げた。これが、Airbnbのサービスの始まりである。

次に、2008年民主党大会がデンバーであり、もともとホテルのキャパシティが少なく、バラク・オバマの演説を聞くために多くの人が集まり、ホテルが満室になるのが確実で、キャンプする人もでる見込みだった。このタイミングで、クレジットカードでの決済サービスを付け加えたAirbnbのサービスをローンチした。このときは、100名程度が利用した。

この実績を踏まえ、投資を得る最適なタイミングと判断して、投資家にコンタクトをする。10本のメール、5件のコーヒーミーティングがあったけれど、投資に至ったのはゼロ件だったという。知らない人に部屋を貸す人がいるのか、という疑問を乗り越えられなかったようだ。

投資を得られず、クレジットカードからの借金でやりくりをして、 そしてサイドビジネスで大統領選にちなんだ"Obama O's"と"Captain McCain"と書かれたカードの入ったシリアルの企画販売をはじめて資金繰りをなんとかしのいでいたという。

www.businessinsider.com

Airbnbの飛躍、ゲーム・チェンジ

その後、ベンチャーキャピタルのY Combinatorの支援を受けられるようになった。これがゲーム・チェンジになったという。

Y Combinatorはスタートアップの指導に力を入れている。Y Combinatorに「マーケットはどこにある、すぐにそこに行け」といわれ、当時もっともAirbnbの登録者が多かったニューヨークに飛んだ。

そこで、Airbnbに掲載されている貸主の部屋の写真が見栄えがしないことに気が付き、彼はデザイン系の学校で写真のクラスを取ったこともあり、部屋の写真を撮るサービスをすることにした。

カメラを持って貸主の部屋を訪問した。彼らが撮った写真のおかげで「貸主が、これが自分の部屋?」というぐらいにサイト上見栄えが劇的に改善した。また、この時、貸主とじっくりと話ができて、彼らの立場をよく理解することができたという。

部屋の写真の改善、貸主の意見を取り入れたサイトの改善をすると、すぐに売上が2倍に増加した。世界からニューヨークを訪れてAirbnbを利用した人が、それぞれの都市に戻って今度は貸主としてAirbnbを利用するようになった。

それ以降は投資のオファーも増え、順調に成長している。

地に足がついた展開

Airbnbのストーリーを見ていると、地に足がついた展開をしている、と思う。

Airbnbというと「シェアリングエコノミー」の旗手、のような扱いをされている。しかし、実際のストーリーは、ハイテクを使ったふわふわしたコンセプトで投資を得ているのではなく、自分が実際に体験した課題とその解決策を一歩一歩拡大していることがわかる。

世の中に広がるサービスは、やはり、どのようなテクノロジーを使っているか、ではなく、利用者にとって切実な課題が解決される、利便性が高まる、非常に楽しい、といったところが重要なのだと思う。Y Combinatorの「マーケットはどこにある、すぐそこに行け」というアドバイスによってゲーム・チェンジが起きたことも示唆的である。

地に足がついた展開だなと思った。

独裁的な政権による秩序か、民主的な政権による混乱か

混迷が増すシリアの情勢と日中戦争下の中国の情勢

今回もアメリカとロシアと停戦交渉が破綻し、アサド政権とロシアによるアレッポへの爆撃が激化している。

シリア内戦は、国内のさまざまな勢力がそれぞれ外国と結びつき、混迷が増している。ある種のバランスが成り立ち、膠着しているとも言える。だから「解決」は遠いように見える。

このシリアの情勢を見ていると、日中戦争下の中国の情勢とよく似ていると思う。

その当時の中国では、国内は国民党(国民党自体も軍閥の寄せ集めで勢力争いが錯綜していた)、共産党軍閥が争っていた。国民党をドイツ(後に支援を打ち切る)、アメリカが支援し、共産党ソ連が支援する。ソ連共産党に国民党と協力して対日抗戦をすることを指示し、その過程で国民党へ支援することで影響力を持った。日本は軍閥と提携しつつ、満洲から中国へ侵略する。国民党内で蒋介石に不満を持ち、対日講和を構想していた汪兆銘に傀儡政権を設立させる。

結局、日本は第二次世界大戦に破れ日中戦争は終結するが、その後、国民党と共産党による内戦が続く。日中戦争は1937年に始まり、1945年に終わる。第二次国共内戦は1949年まで続くから、12年間になる。さらに、第一次国共内戦が始まった1927年から数え始めれば、中国本土では22年間も国民党と共産党が関係した戦闘が続いていたことになる。

シリア内戦は2011年から始まっているから5年続いている。まだ、内戦が終わりそうな気配はない。

独裁的な政権による秩序か、民主的な政権による混乱か

内戦で混乱した地域に介入するとき、独裁的な政権であっても秩序を確立することを優先すべきか、あくまでも民主的な政権の確立を目指し一定期間の混乱には目をつぶるべきか、という一種究極の選択がある。

アメリカを中心とした西側諸国は、アサド政権による独裁は容認できないと考え、いわゆる「反政府勢力」を支援している。一方、ロシアは「民主的な政権の樹立」より自らの影響力のある政権が秩序を確立することを目指し、アサド政権を支援している。

イラク戦争でアメリカは、独裁者のフセイン政権を打倒し民主的な政権の樹立を目指したが、形式的には選挙は実施されているけれど、実態は民主的にはほど遠い。シリアの反政府勢力も、必ずしも民主的なシリアを目指しているように見えないから、仮にアサド政権を打倒できても民主的なシリアが成立しそうにない。

また、アメリカも独裁的な政権を支援している場合もある。最近は関係が悪化しているが、どうみてもサウジアラビアは民主的な政権ではないが、同盟関係にある。たしかに、サウジアラビアイラク化、シリア化すればその混乱の影響はきわめて大きい。

アメリカによる蒋介石の支援の是非

しばらく前のエントリー(「旅先で本を買う」)で紹介したRana Mitter "China's War with Japan 1937-1945 The Struggle for Survival"に、アメリカ政府内で蒋介石の国民党政権を支援することの是非に関する議論が書かれている。

アメリカ政府は蒋介石政権が独裁的だということは認識していた。その当時は「民主的」に見えていた共産党を支援すべきだという意見や、蒋介石政権を支援することの条件として民主化を求めてはどうかという意見もあったという。特に後者は現在のアメリカでもよく見かける意見だろう。

重慶に駐在していた米国大使ネルソン・ジョンソンは、蒋介石政権が当面民主化する見込みはないけれど、抗日戦争のためにアメリカは蒋介石政権を支援すべきと強く具申していた。

蒋介石は、枢軸国である日本と実際に戦争している当事者であるにもかかわらず、自らは戦争をしていないアメリカの支援が不十分なことを不満に思い続けていたようだ。そして、日本を始めとする枢軸国とアメリカが開戦することを待ち続けた。

結局、アメリカは日本と開戦し、屈服させた。しかし、国民党は共産党に破れ、共産党が独裁的な政権を作ることで内戦が終結するという、アメリカの考えとは大きく違った形で中国の戦争、内戦は決着することになった。

 

China's War with Japan, 1937-1945: The Struggle for Survival

China's War with Japan, 1937-1945: The Struggle for Survival

 

 

 

yagian.hatenablog.com

 

それでは教訓は

それでは、このような歴史からどのような教訓が導き出せるのだろうか。正直よくわからない。

おそらくシリア内戦もアメリカが望むような形で決着するとは思えない。しかし、だからといって、ロシアとともにアサド政権を支援することでシリアに「恐怖の秩序」をもたらすことが望ましいとも思えない。望むような形で決着できそうにないからといって影響力を行使することを諦めることが正しいのかわからない。その時、より望ましいと思うことをするしかないのだろうか。

力と正義の間の究極の選択の間で揺れ続けることになるのだろう。

 

yagian.hatenablog.com

 

I'm feeling lucky radioつながりで:Eels "Souljacker Part I"

Google Play Musicで音楽を聴く

ようやくSpotifyが日本にやってきた。しかし、今のところ音楽のストリーミングサービスはGoogle Play Musicで満足しているので、当面引っ越すことはないと思う。ただ、インターフェースはGoogle Play Musicはどうにもかっこわるく、それがSpotifyなみにスマートになれば言うことはないのだが。

Google Play Musicに加入する前は、iPod Classicに自分の持っているCDの音源をぜんぶ入れて持ち歩いて聴いていた。しかし、Google Play Musicに移行し、スマホで膨大な音楽をいつでも聴くことができるようになったら、音楽を聴く時間も増えたし、バラエティの幅も広がった。

Google Play Musicに"I'm feeling lucky radio"という機能がある。選曲のアルゴリズムはわからないけれど、その時に私が聴きたいと思う音楽を推定してプレイリストを自動生成してくれる。これがけっこういい選曲をしてくれる。

play.google.com

BeckからEelsにつながる

 ある日、会社を出たところで"I'm feeling lucky radio"を選んだら、Beckからはじまるオルタナティブ・ロックのプレイリストが始まった。

地下鉄に乗りながら聴いていると、知らないバンドの曲にガツンと来た。曲名を確かめたらEels"Souljacker Part I"だった。

自分は、やっぱりオルタナティブ・ロックのローファイな音、ちょっと斜に構えた歌詞が好きなんだなぁ、と思った。Wikipediaで調べてみると、Mark Oliver Everettという人がMr. Eと名乗ってやっているバンドらしく、バンド名も含めたひねくれた感じもいい。

映画音楽にもずいぶん使われているようで、"American Beauty"の挿入歌("Cancer for the Cure")にも使われているという。"American Beauty"は映画そのものも大好きだけれど、挿入歌の選曲も気に入っている(ラストのthe Beatle"Because"が非常に印象的)。Eelsというバンドは知らなかったけれど、彼らの音楽はいつのまに耳に入っていたようだ。

Eelsの代表曲を聴くべく、すっかりヘビロテ中である。

Eels - Souljacker Part I

Eels"Souljacker Part I" 

この"Souljacker Part I"のPVはヴィム・ベンダースが東ベルリンで撮ったもので、雰囲気がある。例によって歌詞を翻訳してみよう。

 

イールズ「ソウルジャッカー パートI」

22マイルの険しい道のり

33年間の不運の歴史

44個の骸骨が埋められた土地

泥の中を這いずり回る

オー イェア

 

ジョニーは先生がきらい

ジョニーは学校がきらい

いつかジョニーはそいつらに

アホじゃないってことを見せつけるだろう

オー イェア

 

姉貴や兄貴は彼氏や彼女をつくる

家族のゴタゴタは秘密

トレイラーパークは気が滅入る

家から出ることは許されない

 

サリーは父親がきらい

サリーはともだちがきらい

サリーとジョニーはテレビを見てる

番組が終わるのを待ってる

オー イェイ

 

姉貴や兄貴は彼氏や彼女をつくる

家族のゴタゴタは秘密

トレイラーパークは気が滅入る

家から出ることは許されない

 

22マイルの険しい道のり

33年間の不運の歴史

44個の骸骨が埋められた土地

泥の中を這いずり回る

オー イェア

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