美しい文章とは 続き

昨日のエントリー「美しい文章とは」の続きを書く。
「美しい文章」を、その文章の言葉そのものの美しさ、文章が表現する対象と独立した言葉の音やリズムそのものの美しさという側面、文章によって表現される対象の美しさ、表現の的確さという側面に分けて考えてみたい。あまりこういった術語は使いたくないけれど、前者はシニフィアンの美しさ、後者はシニフィエの美しさということである。もちろん、どちらかの要素のみで構成されている「美しい文章」というのはなく、この両面が調和して美しさを実現しているのだろうけれど、理解の助けとするために分類しておきたい。
昨日のエントリーで書いたことは、シニフィエの美しさは文章そのものの美しさではないから、シニフィエが美しい文章を「美しい文章」と呼ぶのは抵抗がある。しかし、近代以降の散文は、シニフィアンとしての美しさを排除する方向にある。なるべく文章そのものを意識させずシニフィエを想起させるような、シニフィエに対してなるべく透明な文章が指向されている。そういった散文に対して「美しい文章」と言えるのか、また、もし「美しい文章」があるとするならば、どのような散文を指すのか、というのが基本的な疑問なのである。
昨日の稲本のコメントで「美しい絵」と「美しい文章」を対比させるとどうなるか、という問いがあった。マティスの絵は、恐らくシニフィアンの美しさを追求したもので、言葉の世界と対比させるならば、現代詩に相当するのだと思う。ルノワールは、シニフィアンシニフィエの美しさを調和させようとして過剰になってしまっているという意味では、いわゆる美文、尾崎紅葉に相当する(紅葉先生すいません)のだろう。写真のようなリアルな絵について書くと複雑になりそうなので、写真を例にとると、先に書いたシニフィエに対して透明な散文が相当するのだろう。knoriさんが、中谷宇吉郎の文章を客観的、正確と感じる、とコメントしていたけれど、科学者である彼の文章はまさに写真的ということなのだろう。
さらに、写真の比喩を使って、現代の散文の美しさについて考えを進めてみたい。絵と違って、スナップ写真はシャッターを押しさえすれば、誰でも撮れる。スナップ写真は、現代の散文のように、シニフィエに対して透明である。しかし、そのようにして撮影したスナップ写真も、何を対象に選ぶか、それをどのように切り取るかによって撮影者の個性が表れる。おおげさに言えば、シニフィエに対して透明なはずのデジタルカメラを使っても、シャッターを切る人の世界の解釈が表現されてしまう。
knoriさんが、中谷宇吉郎芥川龍之介を比較していたけれど、二人の文章はこの意味で個性が違っているのだと思う。芥川龍之介も、シニフィアンとしての美しさを目指した尾崎紅葉風の美文ではなく、シニフィアンを意識させないシニフィエに対して透明な散文を書いている(ここまで言い切ると言い過ぎかもしれないけれど、理解しやすくするためのここでは極論しておく)。中谷宇吉郎の文章は外界がクリアに再現されるように撮影した写真のようであり、芥川龍之介の文章は自分の内面にフォーカスした写真、もちろんデジタルカメラでは人間の内面を写すことはできないが文章ならばそれが可能である、のようであるといえるかもしれない。
スナップ写真や散文は、たまたま美しいものを対象にして書くこともあるけれども、一般的に言えば、美しいものを表現することを目的としていない。王朝時代の屏風絵や和歌(適切な例かどうかわからないけれど)は、美しいシニフィエを美しいシニフィアンで表現することを目指している(のだと思う)。このような表現を「美しさ」という観点から考えるのは意味がある。しかし、スナップ写真や散文を「美しさ」という観点から考えることの意味が乏しいように思える。
確かに、スナップ写真や散文に、意図した対象を再現しうるかという意味での上手、下手はある。上手と美しさがどこまで結びつきうるのだろうか。志賀直哉の文章が美しいという時には、突き詰められた上手さに機能美のようなものを見ているのだろう。しかし、機能美があるような散文はなかなかお目に書かれないし、美しさを指向していない散文によって機能美を実現しようというのは、散文の本質から外れた道のように思う。もし、美しさを求めるのであれば、散文ではなく、詩を突き詰めるべきなのではないか。
書きながら、自分でもよくわからなくなってきてしまった。